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2012年 11月 06日

マレーシアの簡単な写真の歴史(覚え書)

 世界で最初の写真は1827年にニセフォール・ニエプスが撮影したものだが、公式な写真の発明は、1839年にルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプをフランス科学・芸術合同アカデミーにて発表したことにあるとされる。
 日本にはその4年後の1843年、オランダ船により長崎に写真機材が到着するも持ち帰られ、日本で撮影された写真で現存する最古のものは、ペリー艦隊再来時の1854年に従軍写真師エリファレット・ブラウンが撮影した写真である。日本人の手によって撮影された写真で現存する最古のものは、1857年に島津斉彬が自身で入手した写真機材によって撮影されたポートレイトで、日本で最初の写真館がオリン・フリーマンによって横浜に開かれたのは、1860年のことであった。
 一方、マレーシアはどうかというと、1839年にイギリス領チャンネル諸島からシンガポールに移りロンドン・ホテルを経営していたGaston Dutronquoyによって、1840年代前半には早くも写真スタジオが同ホテル内に併設されていた。シンガポールで初めて出された写真の広告はDutronquoyによるもので、シンガポールで二番目の英字新聞として発行された「シンガポール・フリー・プレス」の1843年12月4日に、以下のように掲載された。ダゲレオタイプの撮影が2分間ででき、一人分の撮影料は10ドルであったという。

“Mr G Dutronquoy respectfully informs the Ladies and Gentlemen at Singapore, that he is complete master of the newly invented and late imported Daguerreotype. Ladies and Gentlemen who may honor Mr Dutronquoy with a sitting can have their likenesses taken in the astonishing short space of two minutes. The portraits are free from blemish and are in every respect perfect likenesses. A Lady and a Gentleman can be placed together in one picture both are taken at the same time entirely shaded from the effects of the sun. The price of one portrait is ten dollars, both taken in one picture is fifteen dollars. One day’s notice will be required.
London Hotel, 4th Dec 1843.”

 また、シンガポールに現存する最古の写真は、1844年にフランス人のJules Itierによって撮影されたもののようだ。Itierは科学に興味を持ち、早いうちからアマチュアでダゲレオタイプ制作に手を染めていた。1843年から46年まで東インド及び太平洋諸島を旅した際にシンガポールにも立ち寄り、趣味で写真を撮影している。当時シンガポールはペナン、マラッカとともに、イギリス東インド会社の海峡植民地として経済的成長が目覚しかった。1840年にイギリス艦隊が中国とのアヘン戦争に乗り出すのも、シンガポールが拠点となったのだという。いずれにせよ、マレーシア(シンガポールの独立は1965年)では日本よりは10年以上も早く写真の歴史がはじまっているといえる。
 以来、マレーシアではポートレイトとランドスケープを中心に数多くの写真が撮られた。初期写真の例に漏れず、エキゾチシズムを対象としたものが写真の多くを占め、マレーやオランダ領東インド(今のインドネシア周辺)のアボリジニー(原住民)なども撮影されている。1861年にシンガポールにスタジオを開いたJohn Thomsonは、マラッカ海峡やシンガポール、マレー半島のすぐれた記録写真を残しており、19世紀のマレーシアを代表する写真家の一人となっている。1876年にシンガポールに創設されたG.R. Lambert & Co.はこの地域における最も歴史のある写真を扱う会社であり、ポートレイトやドキュメンタリーの写真を残している。
 芸術写真の創始としては、Leonard Wrayによって写真サロンPerak Amateur Photographic Societyが1897年に創設された。Wrayはイギリスの写真サロンにも所属し、その強い影響下に主にピクトリアリズムの写真が制作された。また1920年代、30年代初期には絵葉書写真が隆盛した。そこでは主にロマンティックな東洋のイメージが演出されたが、一方ではフォトジャーナリズムの先駆としての役割も果たしていた。
 マレーシアにおける近代美術は1920年代からはじまるようだが、その変革は主に絵画のほうでおこり、写真のほうでは目だった動きはない。だが、アートサロンの展覧会で絵画とともに写真が展示されることもあり、サロン写真は一つのアートの形式として認められつつあった。実験的な試みはほとんどなされず、ピクトリアリズム調、または社会ドキュメンタリー的な写真が好んで制作され、コンポジションやライティング、背景の処理といった実際的なテクニックのことが話題となった。1930年代にはアートフォトムーブメントがあり、主にポートレイトにおいて、野外で自然に撮影したものが好まれるといった傾向があった。

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“Malaysian Photography. History and Beyond.”より。日本軍は現地の自転車を徴用し、銀輪部隊を編成していた(左頁下、左頁上は日本からの独立時)。サロン写真の発表は、日本の占領下に一時中断したようだ。

 第二次世界大戦後の1951年、初めてのマレー写真コンテストがスランゴー・カメラクラブによって開催される。56年にはマラヤ連合写真クラブが創設されるなど、50年代以降もサロン写真はますます盛んとなった。73年にはマレーシア国立美術ギャラリーで、いくつかの写真展が開催され、写真コンテストによる展覧会も毎年開催されるようになる。75年に開かれた政府と共催のコンテストでは、Ismail Hashim(1940-201?)が最優秀賞をとった。グラフィックデザイナー出身の彼はマレーシアの現代写真を代表する写真家となり、時にコンセプチュアルともいえるその手法は、美術と写真の越境をはたすものとして注目される。
 1980年代頃、それまで主にイギリスを中心としたヨーロッパ圏に留学していたアーティストたちが帰国しはじめ、一部は国内の学校で教鞭をふるうことなどによって、マレーシアの美術界には大きな転機が訪れる。マレーシアの現代美術が開花し、工芸からアートへと美術を取り巻く状況は変化しはじめる。写真もサロン写真とは距離を置いた文脈で、独自の発展をはじめたのだという。マレーシアの写真家で、30代若手と40代、50代以降とで作品の傾向が大きく違うように思われたのも、こうしたことが背景になっているのだろう。
 現在でも、まだまだ海外に留学する写真家は多く、ジャーナリズムとは関係ないところで作品を作っていこうとすると、学校で教えたり、売り絵を描いたりなど、別の手段で生計を立てないと暮らしていけないようだ。写真を扱うギャラリーも数箇所しか存在しないし、ほとんど売れない。国内では発表する場所がほとんどないこともあって、あまり他者に見せることを意識しない、自己完結した写真も多いように思われた。
 マレーシアの写真は今後どういった展開をしていくのか。国内外で定期的に発表する機会をもつことのできる一部の作家を除いて、おそらくプリントとしての発表の場が限られるなか、写真はPC上のイメージとして主に受容、発表されていくのではないだろうか。あるいは、国内でも展示できる自主ギャラリーのような場が創設されていくだろうか?
 待っていても状況は変わらない、自分たちで新しい動きを作っていかなくてはと、写真家のMinstrel Kuik は語っていた。だが、事はマレーシアだけに限らないだろう。慣例と停滞を打ち破る努力は、どこのコミュニティのなかでも時に応じて必要とされていることにちがいない。


参照:http://kinkonkid.blogspot.jp/2006_11_01_archive.html
http://issuu.com/yusufmartin/docs/dusun_4
“Malaysian Photography. History and Beyond.” National Art Galler Malaysia,2004
“The Loke Legacy: The Photography Collection of Dato’ Lokewan Tho” National Art Galler Malaysia, 2006


*補筆メモ(2014.9.9)
長崎原爆投下直後の写真を撮ったことで知られる山端庸介は、写真家・写真事業家であった山端祥玉(本名・啓之助)の長男として、1917年8月6日にシンガポールで生まれている。祥玉はシンガポールで写真スタジオ・写真材料商を営むサン商会を営んでいた。1911年から20年にかけての、シンガポールへの日本からの移民は3000人ほどいたようだ。
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by curatory | 2012-11-06 15:12 | 海外作家賞


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