2013年 08月 18日

日常と出来事‐山田實の写真

 2013年度の飛彈野数右衛門賞を受賞した山田實氏の受賞作家展を開催するにあたり、展示する写真を選ばせていただいた経緯から、いくつか考えたことを述べさせていただこうと思います。
 展示写真については、今回飛彈野数右衛門賞受賞の対象となった沖縄県立美術館で行われた展覧会カタログと、未来社から発行された沖縄写真家シリーズ第一巻に収録されている写真のなかから選びました。
 これらの写真を通覧して感じたことの一つは、よく指摘されていることですが、山田さんの写真というものはやはり、1950年代前半に土門拳が中心となって牽引したリアリズム写真運動との関係が大いにあるということです。このリアリズム運動というのは1950年に『カメラ』という写真雑誌の月例写真コーナーのゲスト審査員となった土門拳を中心に展開されたもので、土門は、自らが生きる風土と社会の現実を直視することを、全国のアマチュア写真家たちに訴えました。

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山田實 靴磨きの少年 那覇市国際通り 1956年

 第一回飛彈野数右衛門賞を受賞された小島一郎さんも、このリアリズム運動の影響を受けるなかから、自らが暮らす青森を独自の視点とモノクロの色調によってとらえられていました。ですが小島さんの場合、「下北」や「津軽」を題材とした写真集が早いうちから評価されたこともあって、東京を中心とした「写壇」ともいうべきものをかなり意識されながら作品の制作を続けられておりました。「中央」に対する「地方」というものを、いかにして写真に収めることができるかということに、かなり心をくだいております。そのため、「極北」的なものを象徴的にあらわすような作風が意識的にとられることにもなるのですが、山田さんの場合、リアリズム写真の影響を受けながらも、「中央」に対する反発や気負いのようなものがあまり見受けられないような気がします。
 山田さんの場合、中央が唱えるリアリズム写真の影響を受けた、というよりは、金子隆一さんもカタログのなかで指摘されていらっしゃるように、山田さんご自身のシベリアでの抑留経験によって「社会から疎外された人たちに目がいくようになった」という、山田さんご自身の問題意識が土門らのリアリズム写真によって顕在化された、ということがふさわしいように思います。
 山田さんの写真は、見てすぐに何かをアピールするような強い構成であったり、沖縄の「占領」の現実を全面に打ち出すといったような写真ではありません。山田さんの写真を見ていると思い出されるのが、岡本太郎が撮った写真です。金武の共同洗場など、同じ場所を撮った写真もいくつか見受けられます。ご存じのとおり、岡本太郎は写真家ではありませんでしたが、雑誌での「芸術風土記」という連載のために50年代後半に精力的に日本各地を巡り、取材の際にはたえずカメラを持参して写真を撮影していました。沖縄にも59年に訪れており、フィルムで70本ほどの写真を撮影しています。余談ですが、岡本は66年にも沖縄を訪れイザイホーの神事を撮影するかたわら、死者を埋葬した後生の場を訪れ、ある事件のひきがねをひいてしまうのですが、その撮影のときに山田實さんも同行されていたようです(1) 。
 岡本の写真というのは、沖縄の日常生活をとらえたものだったのですが、今のように手軽に写真が撮影できる時代とは違って、庶民の日常というのは、それを写真に撮ろうという意識をもって写していかないと、実際はなかなか記録に残っていないものです。趣味で写真を撮影するアマチュア写真家はどちらかといえば、サロン調のよくできた写真を撮るほうを好みます。岡本が沖縄について論じた『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』(61年)に収録された写真を見た沖縄の詩人の高良勉さんが、「「毎日くり返される私たちの生活を写真に撮ることに、何の意味があるのか」と思った」と記されていましたが、日常生活というものは、なかなか見過ごされがちなものです。しかも、リアリズム写真運動は1950年代後半には下火になってきて、1960年代には沖縄を訪れる東京の写真家たちは、沖縄の写真家が沖縄的リアリズムばかり題材に写真を撮ることに対して、もっと外に目を向けなければいけないといったアドバイスをしていたそうですから、山田さんのように、沖縄の庶民の日常を意識的に撮り続けるということは、やはり特異なことであったのではないかと思います(2)。

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山田實 水汲みの姉妹 那覇市安里 1958年

 また、山田さんの写真は、一枚の写真のなかに構図的に出来事を完結させてしまおうという意図があまり感じられません。何かの最中であるという写真がとても多い。そのため、一枚の写真としての完結度からいうと、どこか中途半端なところがあるようにも見えます。ですが、それは庶民の「生活」というものを、山田さんが写真の表現の手段として搾取しないために選択された方法であり、動きのなかで開示する「出来事」として、写真をとらえようとしていると考えられたからではないか、というようにも感じられます。
 以前、多木浩二さんが木村伊兵衛の写真について、「おそらくその空間独特の感覚を視覚化して、人々に自らが生きている世界を具体的なままに開示してきたことにかれの写真が長つづきした原因があったのであろう。論理化できず、対立するわけでもない微妙な物と人間のまじわり――それが出来事なのだが――を、見る方法にしていったところに木村さんのユニークさがあった。」(3) と記していますが、山田さんの写真にも、こうしたあり方は通じているように思います。ここでも展示している1972年に撮られた海洋博予定地を歩く老婆の写真がありますが、写真集のなかで仲里効さんも触れられていますが、この写真を写真家・林忠彦に見せると空の部分をトリミングするよう勧められ、その通りにして二科会に出したところ入選したという逸話があります。それによって、モチーフが明確になり、画面の強度は上がるかもしれませんが、山田さんにとって重要なことは、やはりサトウキビ畑の広がりと、そこを老婆がサトウキビを杖にして歩き、その後ろには空が広がるという、そうしたものが一体となった沖縄の風土、状況というものが重要だったのではないかと思います。
 山田さんが写真を始めたばかりの1954年に琉球新報社の写真展に応募し特選を受賞した「光と影」という作品や、80年代以降に本格的にはじめたカラー写真を見ると、どちらかといえば光と影、あるいは色面による構成的な作風が印象的です。おそらく、こうしたモダンな作風のほうが、山田さんご自身の嗜好性に合うのではないかと思います。そうした嗜好性をあえて抑制しながら、山田さんは沖縄の人にも、本土の人にもあまり見向きもされなかった社会の周辺(あるいは底辺)で生きる人々の日常を、できるだけその「出来事性」においてとらえようとした。それらの写真は無造作にとられているようでありながら、山田さんの強い意志に貫かれているような気がします。それは自立した「作品」としての写真の出来からいうとインパクトに欠け、同時代的には評価の対象にはなりづらいものかもしれませんが、こうして半世紀を経て改めて見直してみると、作家性の抑制された画面からは、被写体の声がより一層響いてくるように思われます。

(*本文章は受賞作家フォーラムでの発言に補筆したものです。)


(1) 山田他、十数人が同行し、案内は二科会支部長の大城皓也による。1966年の岡本の沖縄再訪は二科会沖縄支部の招きによるものであった。(『山田實が見た戦後沖縄』琉球新報社、2012年、pp212-217参照)
(2)50年代は土門らのリアリズム写真が主流であったが、60年代以降は沖縄の写真家が沖縄の写真ばかりを撮ることに、本土から講師などの形で招かれた写真家たちが苦言を呈し、沖縄的なものからの脱皮を説くことが多かったという。そのなかで、62年に来沖した濱谷浩は、山田に対して、沖縄の記録を撮り続けるように言ったという。(座談会[山田實、仲里効、大城弘明、比嘉豊光]「時代の旅人 写真史散策~沖縄は何を記録してきたか~」琉球文化アーカイブ・沖縄写真史より http://rca.open.ed.jp/city-2002/photo/2zadankai/index.html)
(3)多木浩二「壁や塀は界隈の中にあり奥には人がいる」『生き残る写真「木村伊兵衛を読む」』アサヒカメラ増刊、1979年12月、p69
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by curatory | 2013-08-18 15:23 | 時評


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