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カテゴリ:海外作家賞( 20 )


2015年 05月 12日

ニュージーランドの写真5  ポスト・コロニアリズムの視点を抱えたゴシックの国

 ニュージーランドにおける現代写真の祖ともいわれるローレンス・アーバハート(Laurence Aberhart b.1949)は、1970年代中ごろから、100年ほど前に作られた8×10の大判カメラを使って、ニュージーランドの小さい町の建物や文化(植民地時代に関係のある場所や建物、ランドスケープ、マオリの集会所、戦争記念碑、博物館など)に、時間や都市化がどういった影響を及ぼしてきたかをドキュメントしたシリーズを制作している。彼の作品はゴシックを想起させるものではないが、ニュージーランドの歴史や風景がはらんだ表裏の意味を考えるうえで、先駆的で重要な仕事をしてきた作家として、1980年代半ばの多文化主義の議論のなかでも高い評価を得ている。
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   ローレンス・アーバハート「aberhart」(Victoria University Press、2007年)より

 建物を左右対称に正面からとらえ、内部空間にも目を向けた手法は、ウォーカー・エヴァンスを思わせる。(アーバハートには、エヴァンスが数多くの写真を写したアメリカ、ミシシッピー州のヴィックスバーグで撮影した「Vicksburg, Mississippi 1988. (Referential to Walker Evans and a joke in the decorative style)」という作品もある。)タイポロジー的な要素も強い彼の作品だが、1881年に植民地軍隊にとらえられたマオリの囚人が、監獄の窓のスリットから遠望したと思われる風景をとらえた「囚人の夢(The Prisoners’ Dream)」(1999-2000)などは、情感を誘う作品となっており、エヴァンスのいうリリック・ドキュメンタリーをある意味踏襲しているのだろう。
 「ANZAK」は1980年から2013年にかけて、オーストラリア、ニュージーランド各地に建てられている第一次世界大戦で戦死した兵士の記念碑を撮影したシリーズ。これらの記念碑は、第一次大戦の記憶として、国民の誇りや悲しみを表す公共スペースとして建造されたが、終戦から100年が経とうする現在、その多くが都市化の過程で忘れられたオブジェと化している。アーバハートは、風景のなかに紛れた歴史的存在に焦点をあてることによって、それらを社会的風景として認識してもらいたいと考える。ストイックな寡黙さを保ちつつ、被写体に語らせようとする彼の写真は、安易な解釈をはねつける強さがある。


 ニュージーランドのソーシャル・ランドスケープということを考えたときに、ウェイン・バーラー(Wayne Barrar b.1957)は外せない。19世紀にニュージーランドで撮影された初期写真や、ニュー・トポグラフィックス展(ジョージ・イーストマンハウス、1975年)などへの関心から、1980年代半ばから人間と自然の関係、「土地(Land)」がいかに支配、利用、居住されてきたかということをテーマとしたシリーズを作っている。ニュージーランド南島にある有名な塩田で、もっとも人工的に工業的な手が加えられた場所ともいえるグラスミア湖を撮影した「Saltworks: The Processed Landscape」(1987-1989)、ニュージーランドだけでなくアメリカ、オーストラリアなど、鉱物などを採掘した後の地下の空間を再利用している建築を撮影した「An Expanding Subterra」(2002-2009)、ニュージーランドに侵入してきた鯉や水藻の一種であるディディーモといった外来生物の爆発的な増殖をテーマとした「Imaging Biosecurity」(2007-2009)シリーズなど、人と自然の共生関係を問いかける、興味深い作品を制作している。
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   ウェイン・バーラー「An Expanding Subterra」(Dunedin Public Art Gallery, 2010)、「Bio Borders Animals and Plants in a Globalised Landscape」(PATAKA, 2012)


 人と自然の共生というテーマからいうと、今年の海外作家賞を受賞したアン・ノーブル(Anne Noble b.1954)の「Antarctica」シリーズ(特に写真集『The Last Road』(2014)としてまとめられたもの)も、人間が南極大陸に与えた影響に目を向けている。崇高で無垢な未開地として人々に想像されてきた南極の土地を、人がいかに開拓し、足跡を残してきたかという赤裸々な現実を、ノーブルはシニカルともいえる形で突きつける。屋外の小便用の目印に立てられた黄色いポールと、その下を黄色に染める小便の滲みをとらえた「Piss Pole」(2008)や、真っ白で無垢なはずの南極の雪上を容赦なく前進する、薄汚れてカラフルなトラクターに書きつけられた、軍隊の名残も感じさせる女性名の愛称にクローズアップした「Bitch in Slippers」(2008)、地面の土が露わになり、様々な建築資材やコンテナ、電線が立ち並ぶ南極半島北東端にあるロス島の殺風景な光景など。
 同じく南極をテーマにした写真集『Ice Blink』(2011)では、南極の観光スポットと、世界界各地の南極をテーマにした水族館やディスカバリーセンターで撮影された写真を組み合わせ、南極という言葉で我々が連想する従来の視覚イメージを探究する。見渡す限りの氷の白と青い海、ペンギンやアザラシが群れるユートピア―――南極に対する私たちの想像力はいかに貧困で脆弱なことか。しかし、もう一方では、観光客が群れる現実の南極のスポットも、水族館のジオラマと同じくらい単調な風景として写しだされる。ノーブルの写真は想像と現実のギャップをテーマにするだけではなく、想像と現実がいかに手を携えて人の欲望に応えた風景を創出するか、写真がそうしたイメージ形成にどういう役割を果たしてきたかということを問いかけている。
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   アン・ノーブル「Ice Blink](Clouds, 2011) 「The Last Road」(Clouds, 2014)より

 ニュージーランドと南極は切っても切れない関係にあり、1820年に南極大陸が発見されて以来、南極探検の補給基地として重要な役割を果たしてきた。アートの分野でも、写真家、詩人、作曲家といったアーティストが南極にて作品を制作するのを支援する南極アーツフェローという助成制度があり、ノーブルの他にも、アーバハートや、ミーガン・ジェンキンソン(Megan Jenkinson b.1958)といった数多くの写真家が、南極大陸を訪れ作品を作っている。ジェンキンソンはゲーテの色彩論をもとにした作品や、視点の移動によって図像が変わって見えるレンティキュラーレンズを使った作品など、視覚のあり方を問いかける繊細で美しい作品を発表している。澄み切った南極の風景のなかに、ピンクや紫といった、まばゆい光のスペクトルでできたオーロラを合成で組み込んだ作品は、写真の原理にも通じる、感覚と科学のあり方を問いかけるものだ。
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  ミーガン・ジェンキンソン「Atmospheric Optics」(2009)、「Phyto-Plasts」(Two Rooms Gallery, 2014)

 駆け足で今回のノミネートにも挙がったニュージーランドで活躍中の写真家たちを紹介してきたが、他にもアーバハートと並んでNZ現代写真の祖とされるピーター・ペライヤ(Peter Peryer b.1941)や、古典技法を用いながら写真発明初期に数多く生み出された幽霊的存在を再現させるベン・カウチ(Ben Cauchi b.1974)など、たくさんの興味深い写真家の作品を知ることができた。
 ニュージーランドは、辺境の島国という点においては、日本とも閉鎖性、凝集性において通じるところが多いだろう。写真においても独自の文化を形成しているように思われた。何よりも開拓地としての北海道と共通する点が非常に多いことが面白く、写真表現の可能性を考える上でも参考になる。
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   ピーター・ペライヤ「Peter Peryer photographer」(Auckland University Press, 2008)より
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   ベン・カウチ「The Evening Hours」(Victoria University Press, 2013)より

  最後に、貴重な時間を割いてお会いいただいた写真家の方々、全面的な協力をいただいたオークランド写真フェスティバルのジュリア・ダ―キン氏ほかスタッフの方々、収蔵庫の作品を惜しげもなく見せてくださったニュージーランド国立博物館写真専門キュレーターのアソル・マッククレディ氏、アーティストの推薦をいただいたヴィクトリア大学のジェフリー・バッチェン氏、McNamara Galleryのポール・マクナマラ氏、Two Rooms Galleryのマリー・ルイズ・ブラウン氏、そのほかご協力いただいた皆さまに心からのお礼を申し上げます。



参照)
ローレンス・アーバハート Laurence Aberhart http://laurenceaberhart.com/
ウェイン・バーラー Wayne Barrar http://waynebarrar.com/
アン・ノーブル Anne Noble http://tworooms.co.nz/artists/anne-noble/
ミーガン・ジェンキンソン Megan Jenkinson http://tworooms.co.nz/artists/megan-jenkinson/
ピーター・ペライヤ Peter Peryer http://peryer.blogspot.jp/
ベン・カウチ Ben Cauchi http://www.bencauchi.com/
マクナマラ・ギャラリー McNamara Gallery ワンガヌイにある写真専門ギャラリー http://www.mcnamara.co.nz/ 
Two Rooms Gallery  http://tworooms.co.nz/
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by curatory | 2015-05-12 16:58 | 海外作家賞
2015年 05月 12日

ニュージーランドの写真4  ポスト・コロニアリズムの視点を抱えたゴシックの国

 ニュージーランドの写真で「ポスト・コロニアリズム」とあわせ、もう一つ感じられたものとして「ゴシック」が挙げられる。レイハナやキハラの作品には、ニュージーランドの開拓がはじまったころのヴィクトリア時代のゴシック調のファッションが用いられることが多いが、(マイケル・ナイマンのピアノ曲が美しいジェーン・カンピオン監督の映画「ピアノ・レッスン(The Piano)」(1993)は、1850年代のニュージーランドが舞台だったが、そこでもヴィクトリア朝の服を着た主人公が荒涼とした海辺と森をさまようコントラストが印象的だった)、それだけでなく、暗く闇に沈んだ部分に焦点を当てる美術、文学作品がニュージーランドには多いとされる。
 アートの文脈でゴシックが注目されるのは、1980年代後半から1990年代初にかけて盛んに唱えられるようになったバイカルチュラリズム(マオリとヨーロッパ系パケハとの共生)や、多文化主義の影響があるようだ。先にも述べたように、70年代のマオリルネサンスの影響、そして80年代のワイタンギ条約の中に記載されているマオリの権利に対する見直しや、それに伴うマオリの言語や文化の尊重に対する世論の高まりによって、アートの文脈でもマオリに対する意識が深まる。その結果、風光明媚な自然にあふれた明るい国としてのニュージーランドだけではなく、マオリ文化とその抑圧を背景に抱いた土地として、闇の部分も掘り起こされるようになる。また、1995年に俳優のサム・ニールが自身の幼少時代を振り返りながら、ニュージーランド映画に蔓延する隠された狂気と残忍さ、ゴシック・イマジネーションに焦点をあてて制作したドキュメンタリー映画「Cinema of Unease」も、大きな影響力があったようだ。
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   イヴォンヌ・トッド「クリーミー・サイコロジー」展(Wellington City Gallery)カタログ

 ニュージーランド滞在中にウェリントン・シティ・ギャラリーで、ギャラリー初の全館をあげての個展「Creamy Psychology」を開催していたイヴォンヌ・トッド(Ivonne Todd b.1973)も、ゴシックと関連づけられて語られることが多い作家だ。会場には彼女がインスピレーションを受けた源泉として、愛読書やファッション雑誌、映画なども参照できるコーナーがあり、トッドは10代からゴシック・ロマンスの小説(V・C・アンドリュースの代表作で、屋根裏に閉じ込められた兄弟の異常な生活を描いた「屋根裏部屋の花たち」など)を愛読していたそうだ。
 トッドの作品のなかでは、女性が重要な位置を占めている。彼女はコスチュームは歴史に縛られたものと考えるが、入念に選ばれたコスチュームを身に着け、虚ろな視線を向ける女性のポートレイトは、どこかヴァンパイア的にも病的にも見える。トッドはまなざしと服装、髪型以外にはほとんど何の情報もないような形で被写体をスタジオで撮影し、デジタル処理を施すことによって、彼女たちの視線と存在の背後に隠れた悲しみや、倦怠感、ナルシスムを浮き彫りにする。ゴシック小説の背景の大部分は、家庭に縛られた女性たちの心の闇が支配しているが、トッドの写真はそうした女性のゴシックな部分に光をあてる。


 ギャビン・ヒプキンス(Gavin Hipkins b.1968)の「The Homely」シリーズ(1997-2000)は、彼自身が「ポストコロニアル・ゴッシク小説」と呼ぶものだ。このシリーズの前に、ヒプキンスは国立図書館が所蔵する、商人で本コレクターだったアレキサンダー・ターンブル(1868-1918)の写真コレクションを用いた「The Unhomely」(1997)と「Folklore: The New Zealanders」(1998)という展覧会をキュレーションしているが、そのなかで彼はこれまで「ニュージーランド」として認識されてきたものは何であり、その背後には何が隠されてきたかについて考察した。Unhomelyはフロイトが唱えた「Unheimlich(不気味なもの)」も意識されているようだが、ニュージーランドを考えられる上で抑圧された部分にも焦点をあてようというのだろう。
 「The Homely」は、オーストラリアとニュージーランドで4年にかけて撮影した80点組の作品で、これまで国と民族を規定するものとして考えられてきた歴史的な場所のほかに、バーガーショップや友人の家などのありふれた対象が、断片的な仕方で撮影、配列されている。緑にあふれ明るい光が差す美しい牧歌的なニュージーランドでも、コロニアルの歴史を抱え、暗い森を有したゴシックなニュージーランドでもない形で、馴染みの風景のなかに潜む抑圧されたものを一連のシリーズのなかで浮かび上がらせようとするとのことだが、ニュージーランド人にとってどれが歴史的で、馴染みの風景なのかもわからない私にとっては、そこに隠された抑圧的な部分まで見通すことはできなかった。
 ヒプキンスは自分の作品においてシュルレアリスム的な要素と、建築とが重要な意味を持つと語っていたが、作品を一つの完結したものとして考えるのではなく、先行イメージや作品間の関係、建築的空間と観者との関係もすべて含めたものとしてとらえている。そのために、展示の仕方も重要な意味をもち、このシリーズではすべて縦位置の作品が間に隙間をもうけず、映画のシークエンスを見るような形で続いていく。それは見られるだけでなく、読まれるべきテクストとしてもあるのだろう。「読む」ための素養がないものにとってはなかなか判読は難しいが、フィクションと現実のはざまにある何かに迫ろうとする、スタイリッシュ、かつ知的でウィットに富んだ作品として際立っていた。
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   ギャヴィン・ヒプキンス アーティストブック


 大型でハイパーリアルな作品で注目を集めるアン・シェルトン(Ann Shelton b.1967)も、ニュージーランドの暗い歴史を掘り起こす作品を発表している点において、ゴシックな作家と言われることがある。ウェリントンで19~20世紀にかけて行われた処刑場所を撮影したシリーズ「Capital」(2010)や、精神病院を撮影した「Once More from the Street」、1900年代前半に創設された薬物、アルコール依存症のリハビリ施設(女性棟)を撮影した「Room Room」(2008)など。シェルトンは地方にあるゴシック的な狂気に満ちた場所や廃墟を撮影することを通して、何が記憶され、何が隠されているのか、風景から何が読み取れるのかを問いかける。
 彼女の作品に特徴的なのは、それを左右反転あるいは上下反転させた二枚組の写真によって提示するところだ。一点透視法によって強調される真実は一つといった気分に違和を差し挟み、不確かさや欺瞞を提示するために、写真というメディアの複製性をうまく活用した「二重化(Doubling)」の試み。シェルトンはそれを、「視覚的などもり(Visual Stammering)」ともいえるものだと説明していた。一見何もないような場所に見えるが、実は…といった手法はそれほど新鮮味のない手法だろうが、大型カメラで細部まで精密に描写された大きな写真が二対になって目の前にあると、それ自体がある特異な視覚体験となる。ぜひ現物を見て欲しい作品だ。
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  アン・シェルトン「a kind of sleep」(Govett-Brewster Art Gallery)より
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参照)
イヴォンヌ・トッド Yvonne Todd http://www.ervon.com/
ギャビン・ヒプキンス Gavin Hipkins http://www.art-newzealand.com/Issue109/hipkins.htm
アン・シェルトン Ann Shelton http://www.annshelton.com/
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by curatory | 2015-05-12 16:57 | 海外作家賞
2015年 05月 12日

ニュージーランドの写真3  ポスト・コロニアリズムの視点を抱えたゴシックの国

  ポスト・コロニアルをテーマの中心に据えたもう一人のアーティストが、シゲユキ・キハラ(Shigeyuki Kihara b.1975)だ。ニュージーランドに行く前から、今もっとも旬でアクティブなアーティストとして、関係者から強く推薦されていた。サモア人の母と日本人の父を持ち、現在はサモアとオークランドに拠点を置いて活動しているキハラは、植民地時代におけるポリネシア人に向けられた好奇の眼を題材にパフォーマンスを行うほか、それをビデオや写真としても発表している。西サモアは1920年から62年までニュージーランドの委任統治領となっており、マーク・アダムスが撮影していたサモア人タトゥーイストもそうだが、サモア系ニュージーランド人の数は多い。
 さらにサモアはニュージーランドに統治される前の1900年から1914年まではドイツの植民地で、その間にサモア人はドイツの各地でVölkerschau(人間動物園、人間展示)としてその文化と生態を売り物にするエキゾティックな見世物に供された。そのことに想をえて作られたキハラのパフォーマンス「Culture for sale」は、2011年にベルリンではじめて発表されたもの。サモア人のダンサーが、観客がお金を払った時にだけ短い踊りを踊るというもので、権力(お金)がいかに文化的、社会的、政治的、精神的なコンテクストに影響を及ぼすかということを観客に問いかける。
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 また、2004年に発表した「Fa’afafine: In a Manner of a Woman」(2008年にはニューヨークのメトロポリタンミュージアムで展覧会も開かれた)は、ポリネシア人たちをエキゾティックなまなざしで描いた19世紀の絵葉書や写真を真似て作られている。ファアファフィネ(Fa’afafine)はサモアでは第三の性を表す言葉で、男性として生まれながらも、女性的な素質をもった人物をあらわす。サモア文化のなかではその存在は伝統的に公に認められてきたそうだ。キハラ自身もファアファフィネで、男性として生まれながらも、現在では女性として生活している。
 この作品は三連の写真からなり、一枚目は熱帯の植物を背景にアンティーク調の長椅子に胸をあらわにした上半身を起こして横たわる女性が、19世紀のエキゾティックな写真に典型的な仕方で撮影されている。二枚目では女性の腰蓑がとられて陰部が露わになり、三枚目では陰部から男性器がのぞいている。
 キハラは西洋人がポリネシア人に対して向けたロマンティシズムとオリエンタリズムに満ちた視線を問うとともに、セックスシンボルとしての女性、女性/男性という区分についても問いを投げかける。作品「サモア人カップル」でも、サモア人に典型的と思われる服装と持ち物をした男女が並んで写されているが、両者はともにキハラ自身が扮したもので、男性の下半身には別の人物の写真が合成されている。キハラは性による二分法や、文化的ステレオタイプに問いを投げかけることによって、自らのアイデンティティの在処を探るとともに、他者から押し付けられた視線に対する異議申し立てを行っているのだろう。

 マオリ出身のメディア・アーティスト、リサ・レイハナ(Lisa Reihana b.1964)もポスト・コロニアリズムの文脈で語られることが多いが、彼女の「デジタル・マラエ」(2001-)シリーズはコロニアル(マオリ)対西欧といった枠組みだけには収まらない、文化的な多様性をもった現代社会を浮き彫りにした作品だ。マラエは集会場を意味する言葉で、マオリ社会においては祖先の霊が宿る神聖な場所として重要な意味をもつ。この作品のなかでは、マオリの神聖な祖先たちが、デジタル処理されたハイパーリアルで現代的なセッティングの下に撮影されている。たとえば、マオリの戦いの神がサーフィングをし、顔に刺青を施した男性が19世紀のヴィクトリア朝の黒づくめのダンディな服装をし、コルビジェの椅子に座っている。コマーシャル写真の撮影のように明るいライトを浴び、暗いバックのなかから浮き上がるようにして写しだされた人物たちは、等身大以上のサイズに引き伸ばされていることもあわさって、圧倒的な存在感を放っている。レイハナはこの作品のなかで、マオリ社会の古代からの価値を、現代の枠組みのなかへ位置づけることを通じて、作品のなかでこそ成立する現代的なマラエを創出しようとしているかのようだ。
 
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   リサ・レイハナ「Digital Marae」展(Govett-Brewster Art Gallery)カタログより




参照)
シゲユキ・キハラ Shigeyuki Kihara http://shigeyukikihara.com/
リサ・レイハナ Lisa Reihana http://www.inpursuitofvenus.com/
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by curatory | 2015-05-12 16:56 | 海外作家賞
2015年 05月 12日

ニュージーランドの写真2  ポスト・コロニアリズムの視点を抱えたゴシックの国

 マオリ系の出自ではないヨーロッパ系(パケハ)写真家のなかで、マオリの問題に真っ向から取り組んでいるのが、マーク・アダムス(Mark Adams b.1949)だろう。オークランドに住んでいると聞いていたが、すでに居を移していたため会うことは叶わなかったが、オークランド空港に近いマンジェレ・アーツ・センターにて個展「Sign Here」(Mangere Arts Centre, 17 January- 1 March, 2015)が開催されていた。ここはマオリの居住者の割合が高いというマンジェレ地区にある、マオリとパシフィックのビジュアル・アーツに重点を置いた文化施設だ。ワイタンギ条約締結175周年を記念しての展覧会で、アダムスが1990年代に国立博物館(テ・パパ)からコミッションされた、ワイタンギ条約が締結された場所を調査し、署名者がかつてそこに立ったと思われる場所を突き止め、撮影するプロジェクトの写真が展示されていた。アダムスはそれを何分割かしたパノラマ写真によって示す。ワイタンギ条約が、イギリス人とマオリによってまるで違う意味をもったように、写真が事実を伝えることには限界があり、分割された写真と写真の合間には、別の視点が入り込む余地があることを暗示している。

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   マーク・アダムス「Sign Here」展(マンジェレ・アーツ・センター)展示風景

 アダムスは大判のフィルムカメラを使って撮影をするが、それは写真が発明された初期に使われていたガラス・プレート版のカメラを想起させもする。1839年にダゲレオタイプがフランス化学・芸術アカデミーで発表され、写真が発明されたまさにその時期と、ニュージーランドの入植が本格化する時期とは密接に重なり合う。カメラのテクノロジーと国家の発展とが手を携え、写真は国家とランドスケープが創り上げられていく過程のドキュメントとして積極的に用いられた。そうしたことに意識的なニュージーランドの写真家にとって、写真を撮ることと自国の歴史を考えることは、切っても切れない関係にある。
 アダムスの「Cook’s Site」プロジェクトは、ジェームズ・クックが第二回探検航海(1772-75)で足を踏み入れた場所や、同伴した画家ウィリアム・ホッジスが、タヒチやニュージーランド南島南西端にあるダスキー・サウンドで描いた場所、そしてその絵が現在飾られているイギリスのグリニッジにある国立軍事博物館などを訪れ、撮影したものだ。クックが当時目を向けた風景は現在もそこに残っているのか、ホッジスは絵画にどのような現実や理想を描きだそうとしたのか、ホッジスの絵画を展示している博物館は何を表象しているのか―――このプロジェクトはアダムスにとって、人が新たなる土地をまなざし、支配下に置いていったプロセスを問う試みでもあり、そこには何層もの視線と表象の問題が折り重なっている。
 アダムスは他にもニュージーランド在住のサモア人のタトゥーイスト、故パオロ・スルアペが施したタトゥーを長年にわたって撮影したシリーズなどが有名だ。こうしたプロジェクトの背後には、太平洋地域のコロニアリズムがいかなるクロスカルチュアルな歴史を辿ってきたかというテーマが通底しているのだという。

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 マオリとスコットランド人の祖先をもつフィオナ・パーディントン(Fiona Pardington b.1961)も、コロニアリズムの視線を問いかける作品で際立った存在感を発している。彼女の作品は視覚性だけでなく、触覚性に訴えかける要素も強く、コロニアリズムの問題だけでなく、視線、写真の複製性、光、時間の問題など、その関心は多岐にわたる。パーディントンは1990年代後半から、エロティックなファウンド・フォトを再撮影したシリーズなど、ジェンダーや、見る/見られる関係について問いかける作品を制作していた。その延長上に、オークランド戦争博物館に収蔵されているマオリの伝統的なネフライト製人型ペンダントであるヘイティキを撮影した「Mauria Mai」(2001)のシリーズがある。ヘイティキは、マオリの神話にでてくる最初の人間ティキを具現化したものとされ、一族の宝として手から手へ渡されてきたものだ。通常10㎝ほどのサイズの魔術的な異形の人型ヘイティキが人間の赤ちゃんくらいの大きさにまで引き伸ばされ、モノクロプリントの深く沈んだ黒をバックに、なめらかな陰影をもって写しだされたその作品は、物に宿る命や魔術の存在、行き場を失った魂についても考えさせる。そこには魂、魂を象ったモノ、それを写した写真という、表象を巡る入れ子状の関係が写しだされている。さらに、タイトルに博物館の整理番号が付されることによって、その宝の前の持ち主や、それが博物館の収蔵品になっていることの意味についても考えさせられる。
 2007年、パーディントンは自分のマオリの祖先のライフキャスト(石膏取り胸像)がパリにあることを耳にする。興味をもった彼女はリサーチによって、それがフランス人探検家ジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Sebastien Cesar Dumont d'Urville 1790-1842、エーゲ海ミロス島で発見されたばかりのミロのヴィーナスを、フランス政府に購入させる交渉をした人物としても有名)の第三回フランス海軍南極探検(1837-40)に同行した、骨相学者ピエール・マリー・アレクサンドル・デュムティエ(Pierre-Marie Alexandre Dumoutier 1797-1871)が、ニュージーランドを含むポリネシアの島々を巡った際に作ったものであることを知る。そのうちの50体ほどが、パリの人類博物館に収蔵されている。(ちなみにこの人類博物館には、ホッテントットのヴィーナスと呼ばれたサラ・バートマンのライフキャストも1974年まで展示されていたという。また、デュルビルがニュージーランドのベイ・オブ・アイランズに到着したのは1940年4月のことで、ワイタンギ条約が結ばれた2か月後だった。デュムティエが作ったライフキャストには、ワイタンギ条約に調印した部族長の一人もいたそうだ。)

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   フィオナ・パーディントン 「Ahua: A beautiful hesitation」(Otago University Press, 2011)

 2010年、パーディントンはこれらのライフキャストを撮影する許可をえて、「Ahua: A beautiful hesitation」シリーズとして発表した。写真が発明される以前に制作されたこれらのライフキャストは、正確な似姿を写すものとして、原・写真ともいえるものだとパーディントンは語る。正確な記録をとろうとする情熱と、その記録から人の内面まで見通すことができると考える19世紀の知性。骨相学は頭蓋を計測することによって、人の気質や性格までもが測定できると考えた。さらに、マオリたちの顔に彫られた刺青(モコ)は、傷口に色素をいれるタトゥーと違い、表面に深く傷をつけることによって模様を作るので、ライフキャストにもその跡が浮かび上がる。モコの模様からは、血族や所属集団などの情報までもが、はっきりと読み取ることができる。同じ頭部のライフキャストでも、西欧とマオリによって、その読み取り方がまったく違うということを、これらのライフキャストは同時に示しているだろう。マオリと西欧の知と視線の差異について、非常に明解に示すものであるとともに、ライフキャストの圧倒的な存在感は、魂をもったヘイティキのあり方にもどこかで通じているように感じられた。

 パーディントンのこのシリーズを見てすぐに思い浮かんだのが、昨年度の海外作家賞(フィンランド)を受賞したヨルマ・プラーネン(Jorma Puranen b.1951)の作品だ。彼の「Imaginary Homecoming」シリーズも、パリの人類博物館に収蔵されていた、1884年にフランス人写真家G.ロッシュがローラン・ボナパルトのラップランド探検に同行した際に撮影したラップランド先住民のサーミ人の写真を扱ったものだ。プラーネンは収蔵されていた写真を再撮影し、被写体となったサーミ人たちが撮影されたと思われる元の場所にリプリントした写真を配置し、風景のなかで撮影するというプロジェクトを行った。彼は写真がそのはじまりから地理的探検や植民地主義と分かちがたく結びついていることに注目し、写真を用いることを通して、風景に新たな意味を与えようとする。そのためには「想像力」が必要で、サーミ人たちの想像上の帰郷から浮かび上がる新しい風景を、写真から見通すことができればと考える。
 プラーネンは1970年代後半から盛んに唱えられていたポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた作家だが、ニュージーランドの写真家たちのポスト・コロニアリズムへの同様の関心を話したところ、おそらく根っこは一緒のところにあるのだろうと言っていた。ニュージーランドとフィンランド。この二つの国に、私自身、はじめは何の共通点も感じていなかった。だが、北と南のかつては探検されるべき辺境の土地にあり、さらには南極と北極という、極限的で崇高なイメージが投影される場所への入り口としての役割も担い、原住民の問題も抱えるという点において両者は密接につながっていた。地球の円環が一気に閉じるような、目が覚める思いがした。



参照)
マーク・アダムス Mark Adams http://tworooms.co.nz/exhibitions/mark-adams-rauru/
フィオナ・パーディントン Fiona Pardington http://fionapardington.blogspot.jp/
「Fiona Pardington Ahua: A beautiful hesitation」(Otago University Press, 2011)
ヨルマ・プラーネン Jorma Puranen http://helsinkischool.fi/artists/jorma-puranen/portfolio/imaginary-homecoming
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by curatory | 2015-05-12 16:55 | 海外作家賞
2015年 05月 12日

ニュージーランドの写真1  ポスト・コロニアリズムの視点を抱えたゴシックの国

 今年の海外作家賞の対象国はニュージーランドだ。夏真っ盛りという去る1月にオークランドと首都ウェリントンを訪れた。真夏だから日差しがきつくて暑い、という話を聞いていたものの、空港に降り立ってみると、日本の9月下旬の秋のさわやかな気候というくらいの印象だ。ニュージーランドは南半球の高緯度地域にあり、緯度としては北半球での北海道に近いため、北海道の気候とも似ているのだろう。大陸オーストラリアの隣にあって小さい島という印象もあるが、南北ふたつの島をあわせると日本の面積よりも広い。けれども、人口は450万人ほどとかなり少なく、そのうちマオリ系は15パーセントほどを占め、ポリネシア地域におけるマオリの一大拠点となっている。
 滞在中に、折しもオークランド市175周年の記念祭典が行われた。ニュージーランドは1642年にオランダ人エイベル・タスマンによって「発見」され、1769年にはジェイムス・クックがはじめて上陸。オークランドに西欧人が最初に足を踏み入れたのは1820年のこととされている。175周年記念というのは、イギリス海軍で後にニュージーランド初の総督となるウィリアム・ホブソン(1792-1842)が、ニュージーランド北島北部海岸にあるベイ・オブ・アイランズに上陸した1840年1月29日から数えて175年目ということだそうだ。

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        オークランド市175周年の記念祭典特別会場での展示 (1842年のオークランド市の人口は2895人とある。)

この1月29日よりもオークランド、そしてニュージーランドにとって重要な意味をもつのは、同年2月6日に締結されたワイタンギ条約だろう。最終的には総数500名以上のマオリの代表者とイギリス王権の間で締結され、ニュージーランドが実質上イギリスの植民地となったこの条約は、マオリ側とイギリス側との解釈の相違から、近年に至るまで大きな禍根を残すことになる。マオリ側はこの条約が、彼らの土地や慣習に対する権利を保持したままイギリスとのパートナーシップを結ぶものとして解釈したが、イギリス側はこれをもとにマオリの土地を奪っていった。
 マオリは何度か戦争を起こすが鎮圧され、土地の権利も失い、教育の機会も妨げられ、マイノリティとしての地位に甘んじることとなる。しかし、アメリカにおける公民権法成立後の1960年代後半からのブラックパワーなどマイノリティ復権運動に影響を受け、ニュージーランドにおいてもマオリ文化復興運動(マオリ・ルネッサンス)がおこったようだ。1975年にはワイタンギ審判所が創立され、ワイタンギ条約で認められた権利を135年目にしてようやく見直し、強奪された土地の返還を求める動きが出る。1987年にはマオリ語法が施行され、公用語にマオリ語が加わることになった。ニュージーランドに行ってみると、公共施設はどこでも英語とマオリ語が両方記載され、テレビでもマオリの番組を放映する放送局マオリ・テレビジョンがあった。
 ニュージーランドと東川町の歴史には似たところがある。東川町に開墾の鍬がおろされたのは1894年とされ、昨年の2014年に開墾120周年を迎えたばかりだ。北海道に開拓使が置かれたのも1869年だから、ニュージーランドも北海道も共に歴史の浅い場所となる。しかし、それは当然開拓者の側から見た歴史であって、ニュージーランドのマオリと同じように、北海道にはアイヌが以前から住んでいた。アメリカにおける1950年代からの先住民族の主権回復運動を受け、日本でもアイヌの権利回復運動が高まりをみせる。だが、アイヌの権利回復が進むのは、ニュージーランドよりもかなり遅い。1997年にようやく北海道旧土人保護法が廃止され、アイヌ文化振興法にとってかわるものの、アイヌは依然、先住民族としては認定されなかったし、アイヌ民族共有財産の返還裁判にも敗訴した。この差は、ニュージーランドにおけるマオリの占める人口が15パーセントというのに比べ、アイヌは圧倒的少数者にすぎず、日本における一地方の問題としてしか捉えられていないということが大きく関係しているだろう。
 ニュージーランドに行ってまずもって驚かされたのが、マオリ文化の顕在性であり、出会ったアーティストたちのほぼすべてが、自国の歴史や風景、文化の在り方について、ポスト・コロニアル的な視点を確実に意識しながら作品を作っていることだった。ウェリントンにあるニュージーランド国立博物館(テ・パパ・トンガレワ)の写真専門キュレーターであるアソル・マッククレディ氏と話した際に、こうした印象を伝えたところ、彼にとってそれは当たり前すぎる前程で、あえて意識して考えたこともなかったというようなことを言われて、さらに驚きを覚えた。
 彼の説明によると、第二次大戦後、イギリスとの関係が次第にゆるやかになってきた1950年代後半から、ニュージーランドの歴史に対する新たな関心が向けられてきた。現代写真の文脈では、1970年代からはじまったマオリ文化ルネサンスの影響が大きい。マオリが自分たちの歴史を認識し、コロニアリズムの不平等な歴史が修正されるよう働きかけ、マオリ以外の人たちにも問題含み歴史について考えさせるように促したことが、アーティストたちにも大きな影響を及ぼした。以来、こうしたポスト・コロニアル的な視点はアーティストにとって欠かせないものとなっているようだ。

 
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by curatory | 2015-05-12 16:54 | 海外作家賞
2014年 09月 07日

ヨルマ・プラーネン―歴史と想像力が交差する劇場としての写真

 写真を撮影することには、「見る―見られる」の不均衡な権力関係が避けがたく内包されているとすれば、一体どういう写真を撮り続けることができるのだろうか。
 1970年代頃からラップランド近くのフィンランド北部で、風景やサーミ人たちをいわゆるドキュメンタリー的な形で撮影していたプラーネンは、ある時期からそうした写真を撮り続けることに疑問をもちはじめたという。1978年にはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が出版され、80年代はポストコロニアリズムが全盛を極めた時代だ。
 1988年、プラーネンはラップランドに住むサーミ人の詩人で音楽家の、ニルス=アスラク・ヴァルケアパーのところで、モノクロで撮影されたサーミ人のポートレイトに出くわす。それらがパリのミュゼドロムに収蔵されている、1884年に撮影されたサーミ人のアーカイブの一部であることを知ったプラーネンは、その写真を用いて作品を作ることに決めた。1991年から97年にかけて制作された「想像上の帰郷」シリーズは、アーカイブの写真を再撮影し、それが撮られた場所に戻す試みとしてはじめられた。

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 Jorma Puranen 「想像上の帰郷」シリーズ展示風景

 プラーネンがしつらえた舞台のような風景のなかで、大地から立ち上がる透明なアクリルボードからこちらをじっと見つめる人物たちは、演劇の役者のようにも見える。写真家は彼/彼女らを舞台上に好きなように配列する権限をもつ舞台監督のようだ。だが、写真家が再撮影された写真にいかなる采配を振るおうとも、彼/彼女らはまったく違う時間のなかを生きている。人類学的に調査され、標本のように見られるべきものとして撮影された彼/彼女らは、圧倒的な存在感をもったまなざしのもとで私たちを見つめ返す。写真家と、写真のなかに写る人物との間に横たわる絶対的な隔たりは、写真家と被写体の間に生じる「見る―見られる」の権力関係を無化している。
 プラーネンが次いで取り組んだ「影、反射、そうしたすべての物」のシリーズでは、数世紀前に描かれた、美術館でも来訪者にあまり見向きもされないようなポートレイトの絵画が撮影されている。プラーネンは撮影を単なる複写に終わらせるのではなく、その時空間ならではの光、反射、周りの景色の映り込みを画面に留まらせることを選んだ。そして、写される肖像画も、全体像ではなく、視線が強調されるバストショットとなっている。光の反射や窓の映り込みを眼でかき分けるようにして、そこにあるものを見ようとするとき、肖像画に描かれた人物の視線はひときわ際立って見えてくる。こちらが見ているというよりは、肖像画によって見られているという感覚すら生まれてくる。そして、写真のなかに、写真が写されたときの瞬間の光や反射だけでなく、写真を見ている現在時の室内の光や反射も紛れこんでいることを認識したとき、肖像が描かれた時間とも、写真が写された時間とも、現在の時間ともいえない、奇妙な表象空間とでもいうものが、ふっと立ち現れるような気がする。

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 Jorma Puranen 「影、反射、そうしたすべての物」シリーズ展示風景

 最新作の「凍てつく眺め」では、眼前の風景をそのまま写し取るのではなく、磨きのかかった黒光りする板に反射させるという操作を加えることによって、風景をあえて茫漠とした見えづらいもの、瞬間的ではかないものに変換する。そうすることで、風景の背後に隠れたものに対する、観る者の地理的、歴史的想像力を喚起させる道を開こうとしている。
 プラーネンは対象をすでにそこに自立的に存在しているものとしてとらえるのではなく、観者やその場の光などの身体性や時間性、その他様々な要素に左右されるものとして視覚化する。それはその都度、その一回性において成立する、劇場のような写真なのだ。そこには、写真における「見る―見られる」の権力関係を相対化するための可能性も提示されているだろう。

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 Jorma Puranen 「凍てつく眺め」シリーズ展示風景
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以下、受賞作家展の会場で配ったシリーズ解説を付しておく。


<想像上の帰郷  Imaginary Homecoming>
 パリ人類博物館保存のラップランド先住民サーミ人のポートレイトに触発されたプロジェクト。これは1884年フランス写真家G.ロッシュがローラン・ボナパルトのラップランド探検に同行の際に撮影したもの。ここに写るサーミ人の多くは、奇しくもプラーネンが20年に渡り撮影していたサーミ人の先祖だった。
 プラーネンは過去と現在の対話を試みるため、アーカイブのポートレイトを、それが写された場所に帰すことを考えた。まずポートレイトを再撮影してフィルムにプリントし、アクリルボードにマウントした。そしてそれを、かつてその写真が撮られた風景のなかに置く。プラーネンにとってはそれが、隠喩的な意味での彼らの帰郷であった。
 写真はその始まりから地理的探検や、植民地化と運命を共にしてきた。ラップランドで撮られた写真が、その地域の「自然の征服」と期を同じくするのは、偶然ではない。古くから歴史家は、ラップランドをメランコリックな最北の地と描写してきた。打ち捨てられ、名も無い場所、英雄的な探検者だけが描く場所。プラーネンはこうした歴史に異を唱え、ラップランドをサーミ人が住み形作ってきた歴史的な風景として理解しようとした。
 過去は想像が作りだしたもので、写真が提供するのは過去の断片にすぎない。全体を見るためには、想像力を要する。プラーネンは彼らの想像上の帰郷から立ち上がる新たな風景に期待する。


<影、反射、そうしたすべての物 Shadows, Reflections and All That Sort of Thing>

 ヘルシンキにある14~19世紀の芸術作品をコレクションしたシネブリュコフ美術館で、絵画に反射する光に魅せられて始まったシリーズ。ブルジョアたちを描いた古いポートレイトを撮影することで、描かれた者の過去を呼び覚ます。「起きなさい。そこにいるのは知っているよ。」
 写真のプロセスが強調されることで、本来の絵に対する焦点が物理的な層に紛れ、見る者の視線は作品のディテールを捉える。普段とは違う角度から絵を見ることで、見た者は一瞬と永遠の間の緊張、光のきらめき、そして何世紀にも亘る古色から立ちのぼる脆さを呼び覚まされる。
 自然光が絵画に反射することで、ある部分は露光過多になり、ある部分は闇に沈む。それはいわゆる「良い写真」とは異なる。このシリーズは、ポートレイトとそこに描かれた者、その写真との関係性、そしてそこに用いられる媒体が、我々の「イメージ」に対する認識にいかに影響を与えるか、問いかけている。

<キャンバスを旅する  Travels on Canvas>
 「影、反射、そうしたすべての物」のサイド・プロジェクトとして始まったシリーズ。北極遠征にまつわる歴史画、特に写真発明以前の絵画に興味を持ったプラーネンは、そこに絵画としてではなく、異質の人々、文化、風景を映す記録としての価値を見いだす。
 「Travels on Canvas 1」で撮られた「テント周りのラップ人」(1827年Alexander Laureus作)などは、初期のエキゾティシズムを表すいい例だ。プラーネンが「他者」や「エキゾチックなもの」を示す絵画に関心をよせるのは、北欧圏の植民地の歴史が、多くの人々の記憶から抜け落ちてしまったことと無関係ではない。
歴史画は、異なる時代や場所に不意に道を開く。絵画は、記憶の引き金となり、時間とノスタルジアの感覚を強く呼び起こす。そしてまた、風景に埋め込まれた歴史を検証し、活性化するための様々な声と視点をもたらす。
 プラーネンは、ある種、個人のアーカイブ的なものとして、歴史的なイメージを集めるが、それは絵画を模倣し、そのコンセプトを写真にあてはめようとするものではない。歴史画を間近に見、経験し、そこに付随する曖昧な空間を私たちの時代に広げようとする試みである。

<凍てつく眺め>  Icy Prospects
 「影、反射、そうしたすべての物」の撮影中、ニスが厚く施された絵画の表面に、反射してゆらめく美術館の外観を見た。そこからプラーネンは、細かくやすりをかけた木製の板に、光沢のある黒を塗り、鏡のように反射するテクスチャーを出すことを思いつく。そして凍てつく北の風景に持ち出した板に映じる風景の断片を撮影する。それはあたかも、精密な角度の光だけが銅板にイメージを映し出すダゲレオタイプを思い出させる。下地と筆跡と反射が分かちがたく重なって、絵画的で芸術的な作品になった。
 Icy Prospectsは、北極探検の歴史と、ノールカップ岬での体験から着想を得た。ヨーロッパ最北端のこの岬では、世界中から来た旅行者が、深い霧の中、北極海のさらに先を視ようと目をこらす。幻覚を起こすようなこの作品は、北極海で道を見失った昔日の遠征隊が視た景色に呼応しているかのようだ。
 プラーネンは20世紀初期に描かれた風景と、その背後にある自然の力に対する「崇高な恐怖」という哲学的なコンセプトと、自身がラップランドで撮影した写真の間に対話を生み出そうとする。北方の感覚的な経験にだけ焦点を当てているのではない。様々な運命と歴史、場所や出会いが作り出す場の可能性に興味があり、事実とフィクション、幻想と地理的想像の所産を映し出す場として、北極地方を用いている。

(翻訳協力:宮地晶子)
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by curatory | 2014-09-07 02:37 | 海外作家賞
2013年 11月 14日

ヘルシンキの美術館/ギャラリーなど Museums and galleries in Helsinki

ヘルシンキ周辺の現代美術の関連施設のリストを、参考までに以下に載せておく。
写真に関しては、写真美術館とヒポリットギャラリーがもっとも充実した施設であるほか、Galerie Anhava、Galerie Forsblomも力を入れている。ヘルシンキ・スクールのギャラリーTAIKも1995年~99年までの4年間ほどヘルシンキにギャラリーを構え、数多くの展覧会を行ってきたが、国内における十分なコレクター層の不在と、ローカルメディアにあまり注目されなかったことにより、活動の拠点を国内から海外のベルリンに移すことになった。現在でもフィンランドで活躍する写真家の多くは、国内のギャラリーよりも、海外のギャラリーに軸足を置くことが多いようだ。

美術館:

キアズマ現代美術館  Kiasma - Museum of Contemporary Art
http://www.kiasma.fi/calendar

ヘルシンキ市立美術館 Helsinki City Art Museum
http://www.hel.fi/hki/taimu/en/home

クンストハレ Taidehalli (Kunsthalle)
http://taidehalli.fi/english/

アモス・アンダーソン美術館 Amos Anderson Museum
私立のファウンデーション (Swedish-Finnish) が営む美術館
http://www.amosanderson.fi

フィンランド写真美術館 Finnish Museum of Photography
- at Cable Factory
http://www.valokuvataiteenmuseo.fi/en
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 ノキアの工場跡をリノベーションした複合施設内(Cable Factory)にあるフィンランド写真美術館(左手建物内)


エスポー近代美術館 EMMA Espoo Museum of Modern Art
ヘルシンキからバスで20分程のところにあるエスポー市の美術館
http://www.emma.museum

コマーシャル・ギャラリー

Galerie Anhava
1991年創設。現代美術の主要ギャラリー。絵画、彫刻、写真、ビデオなど、ヴィジュアルアート全般を取り扱う。
http://www.anhava.com

Galerie Forsblom
2011年に現在の場所に移転。現代美術の主要ギャラリー。海外作家及びフィンランドの作家を取り扱う。
http://www.galerieforsblom.com

Helsinki Contemporary
http://helsinkicontemporary.com/now/

Galleria Heino
http://www.galleriaheino.com/en.php

Showroom Helsinki
http://www.showroomhelsinki.com

Gallery AMA
http://www.ama.fi

ノンプロフィット・ギャラリー
(ARTIST-RUN, ASSOCIATIONS/FOUNDATIONS):

Sinne
Run by a Swedish-Finnish foundation
http://sinne.webbhuset.fi/eng/home/

Forum Box
1990年代半ばに創設されたアーティストが運営するギャラリー。
http://www.forumbox.fi/en/home/

Photographic Gallery Hippolyte
写真家協会が運営するギャラリー。
http://www.hippolyte.fi/?lang=en
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映画館をリノベーションして作られたヒポリット・ギャラリー。


Gallery Sculptor
彫刻家協会が運営するギャラリー。
http://www.sculptors.fi/?page_id=608

Muu
1980年代に創設された、伝統的な美術ではない、「他(other)」の形態の美術(パフォーマンス、ビデオ、ニューメディア)を紹介するギャラリー。
http://www.muu.fi/site/?lang=en

SIC
アーティストのグル―プによって創設された新しいギャラリー。国際的なネットワーク構築に力を入れている。
http://www.sicspace.net

Huuto
10年前に作られたアーティストが運営するギャラリー。二つのギャラリーがあり、公募による作品展だけが行われる。
http://www.galleriahuuto.net

Kluuvi
ヘルシンキ市立美術館によって運営されるギャラリー。
http://www.hel.fi/hki/Taimu/en/Kluuvi+Gallery

XL Art Space
若手キュレーターと、ヘルシンキで最初のアールト大学のキューレーターコース(MA, Cumma, Aalto University)の卒業生が運営するスペース。
http://xlartspace.tumblr.com

Oksasenkatu
アーティスト・グループが運営する新しいギャラリー。イベントやパフォーマンスを行うプロジェクトスペースと、不定期で展覧会も行う。
http://oksasenkatu11.fi/blog/

Alkovi
アーティストによって運営される、空き店舗のショーウインドーを利用したギャラリー。
http://alkovi.linnake.net

Unknown Cargo
アーティストの名前を最後にしか明かさない展示方法をとる。
http://www.unknowncargo.com

Ruler
ギャラリースペースを持たず、展示、出版など新しいモデルを模索するオフィスとして機能する。
http://www.rulerspace.com

00130Gallery
国際的なプログラムに力を入れたギャラリー。
http://www.00130gallery.net
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by curatory | 2013-11-14 13:20 | 海外作家賞
2013年 10月 04日

フィンランドの写真/ヘルシンキ・スクールなど

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Jorma Puranen "Shadows, reflections and all that sort of things, 1997-2004" より
 
 30周年を迎える来年度(2014年)の海外作家賞の対象国はフィンランドになった。基本的に過去の対象国以外から選ぶので、30回目ともなるとそれほど選択肢が豊富というわけではない。だが、そうしたなかでもフィンランドは、2000年代からとみに国際的な名声を得てきた「ヘルシンキ・スクール」を中心にたくさんの写真作家が活躍し、興味深い。
 ヘルシンキ・スクールについては、日本・フィンランド修交90周年を記念して、2009年に東京でも二つの展覧会が開催され、若手から中堅の5名の作家が紹介されたため、日本における知名度もそれなりにあるだろう。(注1) とはいえ、知名度の割にはヘルシンキ・スクールが一体どういったグループなのかについてのイメージは結びづらい。そこで紹介された5名の作家には、確かに共通点として光や自然に対する研ぎ澄まされた感覚を伝える作品が多かった。だが、それは何々派としてのスクールとしてくくられる性質というよりは、冬が長く、水と森に満ちたフィンランドという土地柄を反映したものという側面のほうが大きいだろう。
 ヘルシンキ・スクールはたとえばドイツのデュッセルドルフ・スクールとは違い、タイポロジーの方法論といったような、特定の思想や潮流でまとめて語ることは難しい。デュッセルドルフ・スクールが、ベッヒャー夫妻という個性的なアーティストのもと、その精神を徹底的に教え込まれた学生たちによって形成されていくのに対し、ヘルシンキ・スクールはヘルシンキ芸術デザイン大学の客員講師をつとめたティモシー・パーソンズが、同大学に関わる教師、学生、卒業生らをより効率よく海外に売り出すためにパッケージングしたブランド名といった性格が強い。2003年よりベルリンにギャラリー「TAIK」を創設し、現在では50名あまりの所属作家を抱え、海外のアートフェアなどで積極的にアーティストを紹介している。その一定の質を伴ったパッケージ化が海外で大成功を収めたため、ヘルシンキ・スクールという名前だけが一人歩きをはじめたように思われる。ヘルシンキ・スクールというくくり自体はブランド名以上の意味はあまりないのかもしれないが、今回のフィンランドでの調査においても、推薦された写真家のほとんどがヘルシンキ・スクールに属していたように、そこに集まった作家には一定以上の質の作品が期待できるということに間違いはないだろう。(注2)
 ヘルシンキで8月末に行った今回の調査では、ヘルシンキ芸術デザイン大学で長年教師を務め、ヘルシンキ・スクールに属する有望な学生の基盤を作ったといえるヨルマ・プラーネン(Jorma Puranen b.1951)とウッラ・ヨキサロ(Ulla Jokisalo b.1955)のアトリエを訪れることができたほか、中堅写真家のなかでも世界的な活躍をするエリナ・ブロテルス(Elina Brotherus b.1972)、アイノ・カニスト(Aino Kannisto b.1973)、サンナ・カニスト(Sanna Kannisto b.1974)などに会って、実際に話をうかがうことができた。視線の政治性を問うたヨルマ・プラーネンの作品や、現在でも未だ大きなタブーの領域にある不妊治療における自らの体験を直裁に写しだしたエリナ・ブロテルスの新作など、興味深いものがあった。

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 なかでも、まだ知名度はあまりないが、ヤリ・シロマキ(Jari Silomaki b.1975)の写真が印象深かった。2001年より毎日一枚の風景を撮り続け、そのプリント上に手書きで個人的な出来事や世界で起こる政治的な事件などを書き込んだMy Weather Diaryのシリーズや、ネット上にあふれる匿名のブログのなかから興味を引く人物を見つけると、徹底的にリサーチをし、そこに綴られた内容からその人物が暮らす場所に目星をつけ、実際にその土地に赴いて写真を撮り、さらには、その人物が暮らす部屋を様々な記述から推測して自分の家に再現し、役者を使って撮影するといった、気の遠くなる作業を延々と積み上げていく現在進行中のプロジェクト。非常にコンセプチュアルでありながらも、身体性を強く刻印させた彼の作品は、個人の経験と、テレビ、新聞、ウェブといったメディアによって伝えられる経験が相互に複雑かつ密接に絡み合っている現代社会の一側面を確かに掴み取っているように思う。
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 Jari Silomaki "My Weather Diary" 2010

 そのほか、青年期の微妙な表情をとらえたモノクロのポートレイト作品で最近注目されているネリ・パロマキ(Nelli Palomaki b.1981)や、日本での知名度も高い、独特の色彩で幻想的な物語性を誘うアンニ・レッパラ(Anni Leppala b.1981)など、若手の活躍も目立っていた。
 東川賞審査会のために、リサーチをしたなかからめぼしい作家を10数人に絞らなければならないが、どういった基準で作家を選んでいくべきか、いつも頭を悩ませられる。モノクロの風景写真で有名な、フィンランド写真界のもっとも大御所で代表的な写真家といえるペンティ・サマラッティ(Pentti Sammallahti b.1950)などの作家もいるが、国際的にもすでに様々な賞を獲得しているこうした作家を、東川でも対象とすることがふさわしいのか。あるいは、日本ではそれほど知名度はなくとも、その国で一定の評価を得ている中堅作家、またはこれからを担う若手の有望株をそろえたほうが、現在の動向を知るという上では意味のあることなのだろうか。おそらく、それぞれの世代をとりまぜて土台に載せたうえで、議論を尽くしていくのが最善の方法ではあるのだろうが、そのバランスが難しい。しばらくは試行錯誤を積み重ねていくほかはない。


注1)「ヘルシンキ・スクール写真展 風景とその内側」(資生堂ギャラリー、ティーナ・イトコネン、サンドラ・カンタネン、スサンナ・マユリ、アンニ・レッパラの4人による展覧会。)「エア・バスコ個展~ヘルシンキ・スクール 自然とアブストラクトフォトの新潮流~」(G/P Gallery)。また、2000年には東京都写真美術館にて「フィンランド現代写真家展 潜在意識の発露として、写真をイメージ媒体とした身体芸術~4人のフィンランド現代写真家たちを通したアプローチ~」が開催されている。出品作家はアルノ・ラファエル・ミンキネン、ウッラ・ヨキサロ、ヴェルッティ・テラスヴォリ、ペッカ・ニクルス。

注2)今回のフィンランドの写真作家のリサーチにおいては、キアズマ現代美術館のピルコ・シータリ氏(Pirkko Siitari)、オウル北部写真センターのアッラ・ライサネン氏(Alla Räisänen)、ヒポリット写真ギャラリーのミトロ・カウリンコスキ氏(Mitro Kaurinkoski)、写真美術館のアンナ・カイサ・ラステンバーガー氏(Anna-Kaisa Rastenberger)、フレイム・ビジュアル・アーツのタル・エルフヴィング氏(Taru Elfving)にご協力、ご助言いただいた。


ヘルシンキ・スクール(Helsinki School)
http://www.helsinkischool.fi/helsinkischool/index.php

フィンランド現代美術館(KIASMA)
http://www.kiasma.fi/kiasma_en

フィンランド写真美術館 (The Finnish Museum of Photography)
http://www.valokuvataiteenmuseo.fi/en

ヒポリット写真ギャラリー(Photographic Gallery Hippolyte)
http://www.hippolyte.fi/?lang=en

オウル北部写真センター(Northern Photographic Center, Oulu)
http://www.pohjoinenvalokuvakeskus.fi/en/

Frame Visual Arts Finland
http://www.frame-finland.fi/en/
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by curatory | 2013-10-04 16:45 | 海外作家賞
2012年 11月 06日

マレーシアの簡単な写真の歴史(覚え書)

 世界で最初の写真は1827年にニセフォール・ニエプスが撮影したものだが、公式な写真の発明は、1839年にルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプをフランス科学・芸術合同アカデミーにて発表したことにあるとされる。
 日本にはその4年後の1843年、オランダ船により長崎に写真機材が到着するも持ち帰られ、日本で撮影された写真で現存する最古のものは、ペリー艦隊再来時の1854年に従軍写真師エリファレット・ブラウンが撮影した写真である。日本人の手によって撮影された写真で現存する最古のものは、1857年に島津斉彬が自身で入手した写真機材によって撮影されたポートレイトで、日本で最初の写真館がオリン・フリーマンによって横浜に開かれたのは、1860年のことであった。
 一方、マレーシアはどうかというと、1839年にイギリス領チャンネル諸島からシンガポールに移りロンドン・ホテルを経営していたGaston Dutronquoyによって、1840年代前半には早くも写真スタジオが同ホテル内に併設されていた。シンガポールで初めて出された写真の広告はDutronquoyによるもので、シンガポールで二番目の英字新聞として発行された「シンガポール・フリー・プレス」の1843年12月4日に、以下のように掲載された。ダゲレオタイプの撮影が2分間ででき、一人分の撮影料は10ドルであったという。

“Mr G Dutronquoy respectfully informs the Ladies and Gentlemen at Singapore, that he is complete master of the newly invented and late imported Daguerreotype. Ladies and Gentlemen who may honor Mr Dutronquoy with a sitting can have their likenesses taken in the astonishing short space of two minutes. The portraits are free from blemish and are in every respect perfect likenesses. A Lady and a Gentleman can be placed together in one picture both are taken at the same time entirely shaded from the effects of the sun. The price of one portrait is ten dollars, both taken in one picture is fifteen dollars. One day’s notice will be required.
London Hotel, 4th Dec 1843.”

 また、シンガポールに現存する最古の写真は、1844年にフランス人のJules Itierによって撮影されたもののようだ。Itierは科学に興味を持ち、早いうちからアマチュアでダゲレオタイプ制作に手を染めていた。1843年から46年まで東インド及び太平洋諸島を旅した際にシンガポールにも立ち寄り、趣味で写真を撮影している。当時シンガポールはペナン、マラッカとともに、イギリス東インド会社の海峡植民地として経済的成長が目覚しかった。1840年にイギリス艦隊が中国とのアヘン戦争に乗り出すのも、シンガポールが拠点となったのだという。いずれにせよ、マレーシア(シンガポールの独立は1965年)では日本よりは10年以上も早く写真の歴史がはじまっているといえる。
 以来、マレーシアではポートレイトとランドスケープを中心に数多くの写真が撮られた。初期写真の例に漏れず、エキゾチシズムを対象としたものが写真の多くを占め、マレーやオランダ領東インド(今のインドネシア周辺)のアボリジニー(原住民)なども撮影されている。1861年にシンガポールにスタジオを開いたJohn Thomsonは、マラッカ海峡やシンガポール、マレー半島のすぐれた記録写真を残しており、19世紀のマレーシアを代表する写真家の一人となっている。1876年にシンガポールに創設されたG.R. Lambert & Co.はこの地域における最も歴史のある写真を扱う会社であり、ポートレイトやドキュメンタリーの写真を残している。
 芸術写真の創始としては、Leonard Wrayによって写真サロンPerak Amateur Photographic Societyが1897年に創設された。Wrayはイギリスの写真サロンにも所属し、その強い影響下に主にピクトリアリズムの写真が制作された。また1920年代、30年代初期には絵葉書写真が隆盛した。そこでは主にロマンティックな東洋のイメージが演出されたが、一方ではフォトジャーナリズムの先駆としての役割も果たしていた。
 マレーシアにおける近代美術は1920年代からはじまるようだが、その変革は主に絵画のほうでおこり、写真のほうでは目だった動きはない。だが、アートサロンの展覧会で絵画とともに写真が展示されることもあり、サロン写真は一つのアートの形式として認められつつあった。実験的な試みはほとんどなされず、ピクトリアリズム調、または社会ドキュメンタリー的な写真が好んで制作され、コンポジションやライティング、背景の処理といった実際的なテクニックのことが話題となった。1930年代にはアートフォトムーブメントがあり、主にポートレイトにおいて、野外で自然に撮影したものが好まれるといった傾向があった。

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“Malaysian Photography. History and Beyond.”より。日本軍は現地の自転車を徴用し、銀輪部隊を編成していた(左頁下、左頁上は日本からの独立時)。サロン写真の発表は、日本の占領下に一時中断したようだ。

 第二次世界大戦後の1951年、初めてのマレー写真コンテストがスランゴー・カメラクラブによって開催される。56年にはマラヤ連合写真クラブが創設されるなど、50年代以降もサロン写真はますます盛んとなった。73年にはマレーシア国立美術ギャラリーで、いくつかの写真展が開催され、写真コンテストによる展覧会も毎年開催されるようになる。75年に開かれた政府と共催のコンテストでは、Ismail Hashim(1940-201?)が最優秀賞をとった。グラフィックデザイナー出身の彼はマレーシアの現代写真を代表する写真家となり、時にコンセプチュアルともいえるその手法は、美術と写真の越境をはたすものとして注目される。
 1980年代頃、それまで主にイギリスを中心としたヨーロッパ圏に留学していたアーティストたちが帰国しはじめ、一部は国内の学校で教鞭をふるうことなどによって、マレーシアの美術界には大きな転機が訪れる。マレーシアの現代美術が開花し、工芸からアートへと美術を取り巻く状況は変化しはじめる。写真もサロン写真とは距離を置いた文脈で、独自の発展をはじめたのだという。マレーシアの写真家で、30代若手と40代、50代以降とで作品の傾向が大きく違うように思われたのも、こうしたことが背景になっているのだろう。
 現在でも、まだまだ海外に留学する写真家は多く、ジャーナリズムとは関係ないところで作品を作っていこうとすると、学校で教えたり、売り絵を描いたりなど、別の手段で生計を立てないと暮らしていけないようだ。写真を扱うギャラリーも数箇所しか存在しないし、ほとんど売れない。国内では発表する場所がほとんどないこともあって、あまり他者に見せることを意識しない、自己完結した写真も多いように思われた。
 マレーシアの写真は今後どういった展開をしていくのか。国内外で定期的に発表する機会をもつことのできる一部の作家を除いて、おそらくプリントとしての発表の場が限られるなか、写真はPC上のイメージとして主に受容、発表されていくのではないだろうか。あるいは、国内でも展示できる自主ギャラリーのような場が創設されていくだろうか?
 待っていても状況は変わらない、自分たちで新しい動きを作っていかなくてはと、写真家のMinstrel Kuik は語っていた。だが、事はマレーシアだけに限らないだろう。慣例と停滞を打ち破る努力は、どこのコミュニティのなかでも時に応じて必要とされていることにちがいない。


参照:http://kinkonkid.blogspot.jp/2006_11_01_archive.html
http://issuu.com/yusufmartin/docs/dusun_4
“Malaysian Photography. History and Beyond.” National Art Galler Malaysia,2004
“The Loke Legacy: The Photography Collection of Dato’ Lokewan Tho” National Art Galler Malaysia, 2006


*補筆メモ(2014.9.9)
長崎原爆投下直後の写真を撮ったことで知られる山端庸介は、写真家・写真事業家であった山端祥玉(本名・啓之助)の長男として、1917年8月6日にシンガポールで生まれている。祥玉はシンガポールで写真スタジオ・写真材料商を営むサン商会を営んでいた。1911年から20年にかけての、シンガポールへの日本からの移民は3000人ほどいたようだ。
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by curatory | 2012-11-06 15:12 | 海外作家賞
2012年 10月 29日

海外作家賞2013 マレーシア

 来年度の海外作家賞の対象国はマレーシアだ。どのようにして対象国が決るかというと、様々な状況を鑑みて、としかいいようのない理由によって決っている、としかいいようがない。写真の町東川賞規定には、「海外作家賞は、世界をいくつかの地域に分割し、年毎に、その対象地域を移動させ、やがて世界を一巡するものとし、発表年度を問わず、その地域に国籍を有しまたは出生、在住する作家を対象とします」とある。だが、いくつかの地域という大雑把なくくりではリサーチも大変だし、地域割りの仕方によってはあっという間に世界一巡も終ってしまうかもしれない。いつの頃からか対象国は1国に絞られるようになり、その時々の事情に応じて対象国が決められるというのが現状だろう。
 アメリカやヨーロッパの国であれば、どのような写真家がいるかは、事前の調査である程度の目星をつけておくこともできる。だが、それ以外の国となると、信頼できる推薦者を得ることが非常に重要な要素となる。今回のマレーシア調査では、幸いなことに二つのギャラリーからアドバイスをいただくことになった。
 一つはアジアの現代美術の紹介と、アートを巡るクロスカルチャーな場を作ることを目指してレジデンスも兼ねたギャラリーを運営しているShalini Ganendra Fine Artのシャリーニ・ガネンドラさん。こちらは東川賞審査員の笠原美智子さんもレクチャーで訪れたことがあり、海外からキュレーターなどを招いてレクチャープログラムを組み、クアラルンプールにおける美術関係者がつどうサロン的な場所となっている。
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Shalini Ganendra Fine Art 1階ギャラリー 

もう一つが、東南アジアの近現代美術を扱う画廊の老舗で、シンガポールとクアラルンプールに拠点をもつValentine Willie Fine Art。VWFAでは主に現代美術の文脈のなかで活躍する作家で、写真も使うがビデオも使うといったマルティメディアアーティストが多かった。
 二つのギャラリーからの紹介だけで、その国の写真家を見定めてよいのかという疑問は当然あるだろう。だが、他からもいくつかアドバイスをもらった感触からすると、そもそも画廊も美術館も少なく、まだまだ写真も含めた現代美術の歴史も層も薄いマレーシアでは、誰に聞いてみてもまずもって挙がって来る名前というものは限られているようだった。そのなかでも、今回はシャリーニさんの目配りのおかげで、現代美術よりの作家からフォトジャーナリズムでも活躍するドキュメンタリーの作家まで、幅広い層の写真家に実際に会って話しを聞くことができた。
 総じて感じたことは、マレーシアはまだ本当に国としての歴史が浅いのだということ。自分たちのアイデンティティは何なのかということを、30代、40代の作家の多くが模索しながら作品を作っていた。また、国としての歴史も浅い上に、人口の6割がマレー系、3割が華人系、1割がインド系といった多民族国家である。たとえば中華系の写真家であるMinstrel Kuikは、マレーシアでは中国人として、中国ではマレーシア人として扱われるという宙ぶらりんなアイデンティティの体験のなかで、写真を通して自分の立ち位置を見つめようとしていた。さらに、ここ数十年来の建設ラッシュのなかで、古い町並みや田舎の見慣れた風景というものも変化してきた。Yee I-Lannは、マレーの風景の象徴でもあったバッファローが気づいてみるとどこにも見かけなくなった状況をもとに、バッファローを街のなかに突然出現させるといったコラージュ作品など、失われた文化、風景を問い直すシリーズを制作している。
 日本による占領の歴史というものも、大きな意味をもっている。1941年12月8日、真珠湾攻撃の1時間半ほど前にマレー北のコタ・バルを襲撃した日本軍は、約2ヶ月間という短期間でイギリス領マレーとシンガポールを占領した。その後、1945年の敗戦までの約3年間、マレーとシンガポールは日本領となっていた。1946年にはイギリスの直轄支配によるマラヤ連合が発足し、48年からはマラヤ連邦へと移行、57年にイギリス連邦の一員として独立。マレーシアが成立するのは1963年のことであり、シンガポールがマレーシアから独立するのは1965年のことである。若手作家の注目株ともいえるEiffel Chongは、モノに宿った死(と生)の気配をテーマとした作品を作っているが、彼のシリーズの一つにも12月8日に日本軍が始めてマレーに進軍した地を撮影した作品が見受けられた。映像作家のChi Tooも、日本でのレジデンス中に、日本人とマレーシア人の間に横たわる戦争についての認識の大きなギャップにシリアスかつユーモラスに向き合った作品を制作している。大東亜共栄圏の幻影を過去のこととして忘却の彼方におしやっている日本人とは対照的に、彼の地では重要な歴史の記憶として反復的にその意味が問われ続けている。
 政治や社会、宗教といった問題に、写真を使って意識的に取り組もうとする写真家が若手では多いなか、より年配の写真家は写真独自の美学を追及する傾向が強いように思われた。1999年にSilver Gelatinというギャラリーを共同で開き、キュレーターとしても活躍するAlex Mohは、アートとしてのモノクロ写真の美学を広く伝えようとしてきた。また、フォトジャーナリストとして出発し、錫鉱山を撮影したシリーズで有名なEric Perisは、写真メディアの可能性をたえず追求しながら、毎年新たなモチーフで写真展を開催することを自分に課し、30数年がたつという。写真に着色をして抽象的な模様を作ったりする実験的な作品を作る一方、世界の本質を見極めないと写真を撮ることができないとする態度は、アンリ・カルティエ=ブレッソンをほうふつさせるものがある。実際、その影響を聞いてみたところ、写真家は職人であるべきだというカルティエ=ブレッソンの言葉には大いに共感すると語っていた。
 マレーシアの写真家は非常に大雑把なくくりでいうと、写真を通じてパーソナルな事象や社会の出来事を探ろうとする30代前後の若手写真家と、現代美術の文脈ですでに名をなしている40代前後のマルチメディア的な作家、50代前後の写真の美学を追求しようとする写真家という3つの傾向に分けられるように思われた。
 果たしてどの層がマレーシアの現在を代表しているといえるのだろうか。だが、そもそも一人の作家に国を代表させることなど無理なことだ。できるのは多様な写真の一断面をかろうじて伝えられるだけだろう。
 写真を含め、芸術というものの役割の一つに、新たな思考やイメージの生成を促す媒体としての要素がある。北海道の小さな町である東川町が、海外作家賞を制定しているということは、異質なものを呼び込むことによって、町の思考を活性化するという意図があるのだと思う。だが、東川賞及びフェスティバルのことを、特に海外の方に紹介しようとするとき、町が何を本当に目指しているのか、私自身もわかりかねて説明に困ることがある。25周年を記念して行われたシンポジウムの席で、東川賞の立ち上げから長年フェスティバルに関わられてきた方が、東川賞について、確かフェスティバルのご神体のようなもの、というような発言をされていたように思うが、さて、その霊力はいまだ健在であるのだろうか。人が自在に使う道具であるとともに、人為を越えたものを垣間見せてしまうこともある写真。写真のもつ複雑さが、写真の町を宣言した町が抱える複雑さを招き寄せているともいえるだろう。その混沌とした様相も、もしかしたら写真的といえる事態なのかもしれないと、ふと、そう思った。


参考リンク:
Shalini Ganendra Fine Art  
http://www.shaliniganendra.com/
シャリーニ・ガネンドラさんが1998年に設立したギャラリー。2011年にはレジデンスも兼ねたギャラリーとして、国内外の作家が多く訪れている。アジアの現代美術、工芸を紹介する。

Valentine Willie Fine Art 
http://www.vwfa.net/kl/index.php
東南アジアの近現代美術を紹介するパイオニアとして、1996年に創設されたギャラリー。クアラルンプールとシンガポールにギャラリーをもつ。2013年に閉廊。

National Visual Arts Gallery
http://www.artgallery.gov.my/web/guest/home
マレーシアの国立美術館(Balai Seni Visual Negara)。1958年に創設。複数のギャラリー内で近現代美術の作家を紹介している。

Petronas Art Gallery
http://suriaklcc.com.my/attractions/art-gallery/
1993年にペトロナスツインタワー内に創設されたギャラリー。マレーシアの国営石油・ガス会社であるPetroliam Nasional Berhad (PETRONAS)によって運営される。

Rogue Art 
http://www.rogueart.asia/ra/about-us/
元VWFAに所属したキュレーターなどが中心となって設立した組織で、東南アジアの美術に関わる出版、展覧会などを企画する。マレーシアの美術を紹介するシリーズ本第一巻「Narratives in Malaysian Art, Volume I: Imagining Identities」がようやく出版され、順次4巻まで出版予定。マレーシア美術を知る上での必携の書となるだろう。

Kuala Lumpur International Photoawards  
http://www.klphotoawards.com/index.html
今年で4回目となるクアラルンプール国際写真賞。ポートレイト、ジャンルを問わない写真、エッセイという三部門に、アマチュアからプロフェッショナルまで公募によって世界各地から参加者を募り、毎年賞を贈る。
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by curatory | 2012-10-29 17:25 | 海外作家賞