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カテゴリ:時評( 4 )


2014年 09月 01日

掛川源一郎と社会的風景(試論)

 掛川源一郎は、北海道ゆかりの写真家や作品に贈られる東川賞特別作家賞を1991年(第7回)に受賞している。そのときに寄贈された作品が、今回の札幌芸術祭の赤れんが庁舎でも一部展示されている。
 掛川源一郎の写真は、バチラー八重子やアイヌの人々を写した写真、沖縄から本土へ、内地から北海道へと移った開拓移民の仲宗根一家を長年にわたって撮影した写真など、北海道の大地に根差し生きる人々に対する共感に満ちたものだ。掛川はヒューマニズムに裏打ちされた「社会派写真家」、「リアリズム写真家」といったくくりで紹介されることが多い。だが、そうしたカテゴリーは写真に写された対象によって写真家を十把一絡げにまとめた乱暴ともいえるもので、あまり多くのことを語ることはできない。
 「社会派写真家」、「リアリズム写真家」ということで、すぐに念頭に浮かぶのは、1950年から54年まで土門拳がアマチュア写真雑誌である『カメラ』の月例投稿写真のコーナーを舞台に提唱した「リアリズム写真運動」だ。土門は「カメラとモチーフの直結」と「絶対非演出の絶対スナップ」をテーゼとし、混乱のなかを生きる日本人の生活を、写真家の主観や演出を排除して客観的に写すことを、アマチュア写真家たちに鼓舞した。土門は、「戦後日本においては、傷痍軍人や、浮浪者といったものが、「敗戦日本の最も典型的な社会的現象」や「存在」であり、「それらをモチーフとすることは絶対に正しいし、またしなければならない。」と言っている。リアリズム写真運動において重要なのは、何を「テーマ」に撮影するかということであり、その「テーマ」を正しく伝えるためには、それをもっともよく表す「典型的な」写真を撮ることが最善の方法とされる側面があった。
 掛川も、1950年代には精力的にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、入選している。そのなかでも特に評価の高かったのが、1954年に「カメラ毎日」で組写真部門一等をとった「神の使徒、アイヌの老姉弟」だろう。その選評においては、牧師姉弟がアイヌ出身者であるという点が、見るものの心をうつ力強いテーマたり得たという指摘を受けている。また、これ以降、掛川は「アイヌ」を「テーマ」として掘り下げ、粘り強い撮影を行っており、掛川の姿勢は「リアリズム写真運動」に通底するものがあったかと思う。
 だが、ここで確認しておきたいのは、掛川が「テーマ性」ということにおいては「リアリズム写真運動」との共通項をもちながらも、それほど「典型」を求めようとはしなかったということだ。掛川の同じ写真を名取洋之助と木村伊兵衛が「アサヒカメラ」で評しているが、そのなかで指摘されたことは、アイヌという感じがでていないということだった。掛川は「アイヌ」をテーマとしながらも、アイヌらしさを写す事よりも、写された人物が、いかにして生活しているかということのほうに重点をおいていた。そして、その生活という観点においては、北海道という土地、風土が圧倒的に重要な意味をもっているということを十分に理解していていたのだろう。それは、掛川が室蘭中学校在学時代から熱中していたという園芸や、植物への関心に負うところも多いにちがいない。あるいはむしろ、植物や自然への興味といったものが、自然とともに生きるアイヌの撮影へと向かわせたと言っていいのかもしれない。掛川は仲宗根家族をはじめて訪れたときの感想として「道路わきや家々のそばに、掘り出された根株が巨大な城砦のように積まれているのに驚き、圧倒された」と記しているが、そうした圧倒的な自然への興味がその後の撮影への原動力となったのではないか。そして、そうであれば、「アイヌ」や「移民」といったテーマから浮かび上がる「典型」ではなく、土地に根差した個別具体的な生活へと彼が関心を向けたのも自然なことだろう。

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掛川源一郎 バチラー八重子『若きウタリに』 (研光社、1964年)より

 掛川の代表作である、晩年のバチラー八重子をとらえた『若きウタリに』(1964)も、まず人が出てくるのではなく、「1.冬の有珠コタン」という章からはじまり、八重子がすんでいる場所、土地の様子の紹介からまずはじめられる。次の章も「2.苺と日曜学校」となり、「苺」という植物を介した八重子の生活の紹介となっている。そして、「3.コタンのくらし」「4.コタンのこども」と続いて「5.アスパラガス」という章がある。この章立ては編集者の意向が強かったようだが、そうであれ、掛川は人だけに焦点をあてるのではなく、自然と人間が、いかに相互に分かちがたく結びついているかということを、写真に撮りおさめていたことがわかるだろう。
 だが、そうかといって、掛川は同時代に支配的な文脈である、典型論からは完全に距離をおいていたというわけではない。掛川の写真は生活に根差したものが基本にあるが、時に戦中のプロパガンダ写真を彷彿させるような、下からあおった形で顔を撮影したもの、あるいは、どこか遠くをまなざして高邁な精神を象徴しているような人物を写した写真がある。こうした写真を見ると、木村伊兵衛が戦時中に満州で撮影し、そこが理想の国であることをプロパガンダ的に表した写真集「王道楽土」に出てくる人々のポートレートを思い出す。こうした写真は、個別具体的な生活というよりは、ある種の典型的な理想像のようなものであり、掛川が表現したいものを、被写体に対してあてはめてしまっている例といえる。「典型」、あるいは普遍性を、写真のなかにとりおさめようとすることは、「リアリズム写真」における大きな誘惑でもあった。
 「リアリズム写真」というのは、日本においては戦後、土門らによって展開された「リアリズム写真運動」をさすものとして主にとらえられがちだが、これはもっと視点を広く転じてみると、1910年頃から欧米で展開された、絵画的な写真(ピクトリアリアリズム)を否定し、カメラという機械の眼を伴った写真独自の表現を目指したモダニズム写真と密接にリンクしたものだ。モダニズム写真は、単純化すれば、モホリ・ナジらの前衛写真や、ありのままの世界を写しだしたといわれるアジェの写真に現れているようなシュルレアリスム的写真にはじまり、その後のウォーカー・エバンスなどのドキュメンタリー写真を経て、カルティエ=ブレッソン、ウィリアム・クライン、ロバート・フランクらに至るような系譜をなしていく。モダニズム写真、特に技巧をこらさずありのままのリアルな世界をとらえようとしたストレートフォトグラフィの流れにおいては、具体的で個別の世界を写しつつも、そこに「普遍的」な風景を描出しようとする。というのも、そうした普遍性を加味することによってはじめて、単なる記録とは違う、写真における「芸術」としての存在意義を主張することができるからだ。
 日本的リアリズム写真が、「テーマ」という内容に重点があったのに対し、モダニズム写真は、テーマだけではなく、その「形式」も問われることになる。たとえばカルティエ=ブレッソンに代表されるようなモダニスト・フォトジャーナリズムと分類される写真においては、演出されたのではない、「ありのままの人生」を写真にとらえたことを示すために、相手が無意識のうちに、自然な形で撮影したということを強調する必要があった。そのため、写真のなかの人物がカメラを見つめているようなことはほとんどない。また、カルティエ=ブレッソンの場合は、幾何学的な構図を写真のなかにあてはめることによって、「テーマ」や「人生」とは切れたところで、一枚の写真としてそれが自立的に完成することを求めた。
 日本においても、たとえば掛川よりも15歳ほど年下で、掛川と同じ1950年代にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、早くから脚光を浴びていた青森の写真家、小島一郎(1929-64年、2010年第一回東川賞飛騨野数右衛門賞)も、このモダニズムの洗礼を受けていたといえるだろう。小島の写真の特徴は、青森の厳しい自然のなかに暮らす人々の生活や、風景、生活に根差したモノをとらえながらも、それを卓越した造形感覚と独自の暗室操作によって、モダンな造形性と両立させたことだった。小島はそれを「構図」という点だけではなく、「極度にきりつめたトーンの効果や粒子のアレ」(渡辺勉評)を用いることによって、ローカル・カラーだけではなく、象徴性や普遍性まで含みこんだ作品に仕上げていく。
 こうしたモダニズム的な写真家と比べたとき、掛川の写真は、「形式」という点においては、あまり目立った特徴はないように思える。撮りたい対象を中心にもってくることが多く、非常にオーソドックスともいえる形で、対象にストレートに迫った写真に見える。たとえば、掛川と同じように、失われつつある民族、風習をとらえ、一世を風靡した濱谷浩が写した『雪国』(1956年)や『裏日本』(1957年)と比べてみても、そうした違いはうかがえる。濱谷の有名な「田植女」の写真では、造形的な要素を強調するために、被写体の顔が画面外に出されている。掛川の写真にはそうした造形的な処理はほとんど見受けられない。掛川の写真の被写体は、基本的にバチラー八重子、仲宗根一家、山本多助エカシといった風に、名前をもった個人として写されている。
 写真におけるモダニズム的なありかたは、1960年代後半以降、次第に批判にさらされることになるが、その転機となるのが1966年にネイサン・ライオンズがキューレーションし、ジョージ・イーストマン・ハウスで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」だった。そこでは風景の写真的表象は透明ものではありえず、社会的に形成されたものであり、写真的モダニズムが自明のものとしてきた透明性や客観性、ユニヴァーサリズムへの批判がなされる。また、写真においては撮影する側とされる側には不均衡な権力関係が避けがたくあることにも目が向けられる。「風景」とは人と人、人と自然との関係によって築かれるものであり、私たちの住まう環境が、人にとっての風景を作るということを、「ドキュメンタリー」や「社会的リアリズム」というカテゴリーにあてはめるのではなく、見てみようとするものだった。この展覧会においては、撮影される側が撮影者のほうに向き合い、撮る撮られる関係を明示したもの、風景を切り取る写真家の恣意的な視線をあらわにした写真などが多く含まれていた。
 「社会的風景」展は、都会に住む者による視点であることから、掛川が写した風景とはまったく違うものが写っている。だが、掛川の写真に頻出する、撮影される側が撮影者のほうにまなざしを向けている写真、自然のなかで生活を営むところをとらえた個人や集団の写真など、掛川はまさに北海道に生きる人々の「社会的風景」を撮影しようとしていたといえるのではないだろうか。そして、北海道における社会的風景ということを考えたときに、それがアイヌを土地から放逐し、開拓によって築き上げられてきたものだということを避けて通ることはできない。掛川がテーマとして選んだ「アイヌ」と「開拓移民」は、ヒューマニズム的な視点によって選択されたというよりは、開拓100年を記念して学生写真連盟が行った1968年「キャンペーン北海道」の宣伝文のなかに掛川が記した言葉にあるように、「今、僕たちが生きている北海道とは何か」ということを問いかけるものとしてあった。
 そうした観点から見直すことによって、掛川の写真は、北海道写真の嚆矢であり、まさに生み出されつつある「北海道」という土地の記録をとらえた田本研造らによる開拓写真にもダイレクトにつながる。とともに、中央の写壇というものから見ると、リアリズム写真運動に影響を受けた地方のアマチュア写真家にすぎないものとして見えていたものが、実は超越的なモダニズム的な視線を批判したポストモダニズム的視点を内包した写真であったというような、中央―地方の支配的な関係に転換を迫る契機をもそこに見いだせるのではないだろうか。
 だが、だからといって、掛川が時代の先端を行っていたなどという短絡的な発言は慎まなくてはいけない。掛川の写真にはプロパガンダ的とも、類型的ともいえる写真も散見されるし、同時代のいろんな要素がアマルガムのように混在している。けれども、自然、風土と共生する人間の営みを、時間をかけて撮り続けることによって、そしてまた、それを必ずしも人間中心的な視点ではなく、自然に対する深い観察眼に基づいた視線によって撮りおさえることによって、彼の写真からは、いかに自分が生きる世界を写真に写すことができるか、という現代にも通じる問いについての具体的な例を読み取ることもできるのではないだろうか。こうしたことを念頭におきながら、掛川源一郎の写真を考える一歩を踏み進めてみることで、改めて見えてくるものもあるにちがいない。
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by curatory | 2014-09-01 14:42 | 時評
2013年 08月 23日

海に向かって、流れにまかせ、抗いながらもーミンストレル・キュイクのMer.rilyシリーズ

 
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ミンストレル・キュイク 「The Durian Fanatics」シリーズ展示風景 東川文化ギャラリー 

 2013年度海外作家賞のミンストレル・キュイクの作品は、中華系マレーシア人として、自身のアイデンティティはどこにあるのかといったことを、自身や家族が暮らす土地や風景、食べ物といったパーソナルな日常的なものを題材に写真を撮ることによって探ろうとするものだ。一見したところ平凡な日常のスナップに見える作品の背景には、マレーシアの政治的、社会的状況が密接に関わっている。マレー系が約6割、中華系が約3割、インド系が約1割、そして入植以前の先住民も暮らす多民族社会であるマレーシアでは、民族間の調和がとれた社会の実現はいまだ難しく、溝は大きいようだ。
 キュイクの実家があるマレーシア北西部の海岸沿いにあるパンタイ・レミスは中華系が多く暮らす町で、彼女が今回展示することになった「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」シリーズから編まれたシークエンスの大半はこの町で撮られたものだ。当初東川での展示を検討したものの、スペースの都合によって展示を見送った「See the Water」は、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」シリーズをもとに構成されたものだが、今回の展示にはなかったパンタイ・レミスからクアラルンプールへと移動する視点が含められたものだった。海辺の家から、道中に垣間見えるマレー風のヴァナキュラーな家、そしてクアラルンプールのマンションの窓からとらえられる高層ビル群。それぞれの文化的、地理的、政治的地勢によって、場所は様々な表情を見せる。
 キュイクの関心は、外界―公共の場所、内面―私的空間がいかに相互に交渉しあっているかに向かっている。ある特定のコミュニティを構成する要素の基本となるものは、文化だろうか、地縁的関係だろうか、血縁だろうか、そういった問いかけを、身近なところから探ろうとする彼女の手法は、切実ながらもユーモアをもっている。キュイクは写真によって、中華系やインド系の住民を排除し、マレー系住民によってのみマレーシアという国を構成しようとする偏狭なナショナリズムに抵抗し、ナショナリズムとは違う共生の在り方を模索しているともいえるだろう。
 「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」というタイトルはよく知られた子供の遊び歌から来ているものだが、生まれてきた境遇に人生が大きく左右されつつも、すべてを否定的にとらえるのではなく、そのなかの楽しい部分もすくいあげていこうという気持ちもそこにはこめられているのだろう。キュイクの作品では、バイクで家の前を通過する人をとらえた「The villagers」のシリーズ
にもあるように、「移動」ということがとても大きな意味をもつが、移動と交通によって境界を横断していくことによって、何かが開かれていくことに対する希望もあるのではないだろうか。キュイク自身、海辺の小さな町であるパンタイ・レミスから海をわたり台湾に行き、さらにフランスにまで旅立つことによって新しい視点を獲得している。ちなみにMerというのはフランス語で「海」の意であり、海の近くで育ったキュイクにとって、海は新世界へとつながる戸口としてあったにちがいない。

  ボートを漕ごう  Row row row your boat
  ゆっくりと流れに乗って Gently down the stream
  陽気に楽しく Merrily, merrily, merrily, merrily
  人生は所詮夢なのだから Life is but a dream

 展示にあたって、キュイクに作品の背景となるマレーシアの状況や、コンセプトを説明する文章を書いてもらった。彼女の写真のもつ、時にユーモラスで親密な印象からすると、この文章はどちらかといえば生硬で、論理固めに腐心しているようにも思える。だが、一方で自分の心情を素直に吐露するところもあり、社会と内面を行き来する感情の揺れ動きを見ることもできるだろう。キュイクの作品を考える上でも、マレーシアの状況を知る上でも興味深い内容なので、以下に掲載することにする。

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ミンストレル・キュイク 「The Villagers」シリーズより 2009年

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「ホーム」シリーズ
text by ミンストレル・キュイク

展示シークエンス
1 The Villagers (村人たち)
2 The Durian Fanatics (ドリアン狂い)
3 The National Day (独立記念日)
4 The Market (市場)
5 The Sisters (姉妹)
6 The Afternoon Haircut (午後の散髪)

はじめに
 今回、私が東川町フォト・フェスタのために選んだ6つのシークエンスは、2008年から続くプロジェクト「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」からの抜粋です。故郷で撮ったシークエンスをグループ化して、まずアンサンブルとして提示するという当初のアイデアは、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」(2008~)で最初に出しました。これは2012年にノルダーリヒト国際写真フェスティバルに提案して採用されなかったものです。このフェスティバルのテーマ「自然の幻影としての風景」は、18世紀じみて、自己陶酔に過ぎましたが、同時に風景をまなざしの産物ではなく、活発な社会的空間として、また内的でありながら物質的なものとして、風景をコンテクスト化する動機付けとなりました。このグローバル化した時代に、自分の信じるものと絶えずつながり、かつ相反しながら、人は生きる道を選択しています。
 2012年の提案の中で、アルルで写真を学んだ学生時代からあったアイデアを再びつなげることで、自分の写真の実践の枠組みを表現しようとしました。この学生時代、私はドイツの社会学者フェルディナンド・テンニースが提唱した二つの概念―ゲマインシャフト(共同体)とゲゼルシャフト(社会)―すなわち、いわゆる「パンくずの跡」は社会のネットワークにある―ということを知りませんでした。伝統的な価値観が植え付けられたマレーシアの移民家族の中で育った中国人女性の私は、まずシンガポールの日本人工場で秘書として半年働くことで、二つ目の社会集団―ゲゼルシャフトの洗礼を受けました。その後、台湾(1994~1999)とフランス(2000~2006)で美術を学ぶ中で、別の形の社会集団の洗礼を受けました。社会に存在する一人の人間として、私は様々な社会的制約や、アイデンティティー、利害から来る緊張に常に身をさらしています。こうした経験が作品の前提になっています。写真は私にとって、ドキュメンタリーと物語性において、社会的距離と執着を探る媒体となっているのです。
 テンニースが主張する完璧なゲマインシャフトの表現である家族と生得的地位(母と娘のように生まれながらに得る立場)が、長年に亘り私の研究を支えてきました。しかし、このスタンスは内面から湧き出たものというよりは、むしろ実際の多くの試行錯誤から生まれたものです。何を記録し、何を見せるべきかの決断にせまられながら、私はヒエラルキーの縦社会で、残念ながら家族もですが、自分の活動を守ろうとしています。
「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は私とその家族、そして母国との関係性を追求した今も継続中のプロジェクトです。

背景
 「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は、「P comme Paysage (P for landscape)」というかつてのアイデアを受けた、風景を成すものの意味を理解するという私の探求の続きです。2005年に、「P comme Paysage」から新たに「Columbus Day」という写真プロジェクトが生まれました。これは、コロンビア人の建設労働者や海外アーティストとの出会いを通して、アメリカの移民文化に触発されたものです。ロングアイランドにあるロバート・ウィルソン創設のウォーターミル・センターでのレジデンス中のことでした。また、その後に姉一家を訪ねたシアトルへの旅も契機となりました。また、それと並行して、「RROSE - A Story of Two Worlds」という本のプロジェクトにも取り組みました。フランスのアルルと、マレーシアの故郷パンタイ・レミスという二つの町を並列することで、この相容れない二つの風景が私の物の見方やイメージ作りをどう構築してきたかを検証しようとしました。この本の二版は2009年ヒューストン・フォトフェストの国際ディスカバリー展にて展示されました。
 私は1994年、18歳のときに台湾で勉強するためにマレーシアを離れました。マハティール首相の時代、1997-98年のアジアの経済危機を受けて、マレーシアの政治は急進的な再建期を迎えました。1998年に副首相を解任されて間を置かず、アンワル・イブラハムとその支持者が着手した「リフォルマシ(改革)」は、まだ台湾で美術を学んでいた私にも大きな影響を与えました。1999年の卒業後も、両親は反対しましたが、マレーシアには戻りませんでした。2000年には絵画の勉強を続けるためにフランスに渡りました。数度帰国しましたが、その度に2001年の9.11から起きた一連の地球規模のムスリム化を受けて、マレーシアもまた国の思潮が劇的に変わったことに気づきました。2007年、30代前半だった私はマレーシアに戻りました。そして新たな物の見方や考え方に敵対的な態度を取るこの国で、私はかつて属した社会と一線を画することになりました。アイデンティティーが常に政治的にならざるをえない華人マレーシア・ディアスポラにとって、帰属意識ははかない幻に過ぎなかったのです。

比較
 フランスで教育を受けている間、生き残りの本能から、私はデカルト派の影響と均衡を保ちたいと考えました。整然として、他人行儀、冗長で、可視的、合理的、歴史的、家長制のフランス文化というものを経験した後で、世界を理解する別の道はあるのだろうか。アルルで写真を学ぶマレーシア人学生として、私が徐々に受け入れたことは、日々の葛藤は言うまでもなく、フランスの影響と私の生まれが折り合いをつけることなどあり得ないという事実です。とはいえ、プロバンスでの生活が、深い眠りについていた、故郷で家族と過ごした風景の記憶を、明白かつ感覚的なものとして、私の中に呼び覚ましたのです。つまり土地とのより強い結びつきは、単に視覚や景色を見ることではなく、日常の中で「歩く、耕す、料理する、食べる、伝統的な儀式を行う」といった共同体への個人の参加が不可欠だ、という結論に達したのです。

マレーシアでの状況
 1957年のイギリスからの独立以来、劇的な近代化の道をたどってきたマレーシア。時の首相トゥン・アブドゥル・ラザクが1971年に着手した新経済政策のもと、マレー人優位という概念は、マレーシアをカンプン(マレー語で「村」)から消費と保守のムスリムの国へと変えました。
 何をマレーシアの風景の魔法と力と見なすのか、集団の記憶として残るのは何か。50年が経ち、さらに多くの高層ビルと数多のショッピングモールや機能不全の建築物が、徐々に地平線を覆っていく。新たな開発が、我々の伝統的な建物に取ってかわり、昔からの地域を破壊し、手に入る全ての荒れ地や緑地を搾取しているのは言うまでもなく、マハティールのランドマークとして建てられたクアラルンプール随一の象徴、100階立てのツインタワーは、今やオフィスやショップとして使われています。少しずつ、我々共通のイマジネーションと記憶を呼び起こしうる風景は、街の庭の一画やバルコニーへと減じていき、ともすると古い写真に残るのみです。

家族とプンクトゥウム
 結果的に、未だ伝統を残す家族のような社会の単位は、個と土地の間の会話を成り立たせる最後のフロンティアです。社会的制約と母国の中で私の追求はつまりは家族性の構造へと結びつきます。
 母国と同様に、家族はプンクトゥウム、生まれたときからある傷。「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」の目的は、現実の状況で起こる家族のドラマやテンションを最小化しながら、理想化しないで、一つの社会の単位として被写体を客観的に研究することです。そうすれば、思いがけずプンクトゥウムを乗り越える方法が見つかるかもしれない。私にそれができるだろうか。能動的な社会の一員として、どこに私の立ち位置を置くべきかを真剣に考え始めた、その風景の新たな方向づけの過程こそが「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」です。去ることと留まること、受け入れることと拒否することの間で、絶え間ない創造のプロセスであると考えることによってのみ、確固たる社会の境界は、可能になります。
 作品の多くが家族のアルバムのようではあるけれど、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は重層的なつながりを示唆するサブテーマが迷宮のように入り組んでいます。その中には私の働くクアラルンプールと生まれ育った漁村パンタイ・レミスという主にマレーシアの2カ所の写真が含まれます。場所に関しては、外界―公共の場所、内面―私的空間、という二つのタイプの写真を撮りました。写真のほとんどは、祭りを祝うために家族が集うパンタイ・レミスの旧正月のものです。また、姪や甥のポートレート、父が庭で育てたり私が地元の市場で買った植物や野菜、果物のステージフォトなど、サブシリーズも徐々に生まれています。両親の家の向かいのパーム油のプランテーションのような没個性のありきたりの風景、この中を見知らぬ人が動く連続写真なども多い。このぶれた姿こそが、時と場所の経過とその痕跡を示し、これは写真というアートによってのみ可能なものです。
 何よりもまず、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」を、この風景を残してくれている人々に捧げます。これらの写真によって、観客は、ほろ苦い気持ちで、全ての風景の原型とも言える、もっともありきたりな風景―故郷―と相互に見つめ合う気持ちを呼び起こされるでしょう。
 全てのプンクトゥムには癒やしがある、と強く信じて。
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ミンストレル・キュイク 「The Afternoon Haircut」シリーズより 2008年

(翻訳 宮地晶子)
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by curatory | 2013-08-23 00:49 | 時評
2013年 08月 18日

日常と出来事‐山田實の写真

 2013年度の飛彈野数右衛門賞を受賞した山田實氏の受賞作家展を開催するにあたり、展示する写真を選ばせていただいた経緯から、いくつか考えたことを述べさせていただこうと思います。
 展示写真については、今回飛彈野数右衛門賞受賞の対象となった沖縄県立美術館で行われた展覧会カタログと、未来社から発行された沖縄写真家シリーズ第一巻に収録されている写真のなかから選びました。
 これらの写真を通覧して感じたことの一つは、よく指摘されていることですが、山田さんの写真というものはやはり、1950年代前半に土門拳が中心となって牽引したリアリズム写真運動との関係が大いにあるということです。このリアリズム運動というのは1950年に『カメラ』という写真雑誌の月例写真コーナーのゲスト審査員となった土門拳を中心に展開されたもので、土門は、自らが生きる風土と社会の現実を直視することを、全国のアマチュア写真家たちに訴えました。

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山田實 靴磨きの少年 那覇市国際通り 1956年

 第一回飛彈野数右衛門賞を受賞された小島一郎さんも、このリアリズム運動の影響を受けるなかから、自らが暮らす青森を独自の視点とモノクロの色調によってとらえられていました。ですが小島さんの場合、「下北」や「津軽」を題材とした写真集が早いうちから評価されたこともあって、東京を中心とした「写壇」ともいうべきものをかなり意識されながら作品の制作を続けられておりました。「中央」に対する「地方」というものを、いかにして写真に収めることができるかということに、かなり心をくだいております。そのため、「極北」的なものを象徴的にあらわすような作風が意識的にとられることにもなるのですが、山田さんの場合、リアリズム写真の影響を受けながらも、「中央」に対する反発や気負いのようなものがあまり見受けられないような気がします。
 山田さんの場合、中央が唱えるリアリズム写真の影響を受けた、というよりは、金子隆一さんもカタログのなかで指摘されていらっしゃるように、山田さんご自身のシベリアでの抑留経験によって「社会から疎外された人たちに目がいくようになった」という、山田さんご自身の問題意識が土門らのリアリズム写真によって顕在化された、ということがふさわしいように思います。
 山田さんの写真は、見てすぐに何かをアピールするような強い構成であったり、沖縄の「占領」の現実を全面に打ち出すといったような写真ではありません。山田さんの写真を見ていると思い出されるのが、岡本太郎が撮った写真です。金武の共同洗場など、同じ場所を撮った写真もいくつか見受けられます。ご存じのとおり、岡本太郎は写真家ではありませんでしたが、雑誌での「芸術風土記」という連載のために50年代後半に精力的に日本各地を巡り、取材の際にはたえずカメラを持参して写真を撮影していました。沖縄にも59年に訪れており、フィルムで70本ほどの写真を撮影しています。余談ですが、岡本は66年にも沖縄を訪れイザイホーの神事を撮影するかたわら、死者を埋葬した後生の場を訪れ、ある事件のひきがねをひいてしまうのですが、その撮影のときに山田實さんも同行されていたようです(1) 。
 岡本の写真というのは、沖縄の日常生活をとらえたものだったのですが、今のように手軽に写真が撮影できる時代とは違って、庶民の日常というのは、それを写真に撮ろうという意識をもって写していかないと、実際はなかなか記録に残っていないものです。趣味で写真を撮影するアマチュア写真家はどちらかといえば、サロン調のよくできた写真を撮るほうを好みます。岡本が沖縄について論じた『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』(61年)に収録された写真を見た沖縄の詩人の高良勉さんが、「「毎日くり返される私たちの生活を写真に撮ることに、何の意味があるのか」と思った」と記されていましたが、日常生活というものは、なかなか見過ごされがちなものです。しかも、リアリズム写真運動は1950年代後半には下火になってきて、1960年代には沖縄を訪れる東京の写真家たちは、沖縄の写真家が沖縄的リアリズムばかり題材に写真を撮ることに対して、もっと外に目を向けなければいけないといったアドバイスをしていたそうですから、山田さんのように、沖縄の庶民の日常を意識的に撮り続けるということは、やはり特異なことであったのではないかと思います(2)。

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山田實 水汲みの姉妹 那覇市安里 1958年

 また、山田さんの写真は、一枚の写真のなかに構図的に出来事を完結させてしまおうという意図があまり感じられません。何かの最中であるという写真がとても多い。そのため、一枚の写真としての完結度からいうと、どこか中途半端なところがあるようにも見えます。ですが、それは庶民の「生活」というものを、山田さんが写真の表現の手段として搾取しないために選択された方法であり、動きのなかで開示する「出来事」として、写真をとらえようとしていると考えられたからではないか、というようにも感じられます。
 以前、多木浩二さんが木村伊兵衛の写真について、「おそらくその空間独特の感覚を視覚化して、人々に自らが生きている世界を具体的なままに開示してきたことにかれの写真が長つづきした原因があったのであろう。論理化できず、対立するわけでもない微妙な物と人間のまじわり――それが出来事なのだが――を、見る方法にしていったところに木村さんのユニークさがあった。」(3) と記していますが、山田さんの写真にも、こうしたあり方は通じているように思います。ここでも展示している1972年に撮られた海洋博予定地を歩く老婆の写真がありますが、写真集のなかで仲里効さんも触れられていますが、この写真を写真家・林忠彦に見せると空の部分をトリミングするよう勧められ、その通りにして二科会に出したところ入選したという逸話があります。それによって、モチーフが明確になり、画面の強度は上がるかもしれませんが、山田さんにとって重要なことは、やはりサトウキビ畑の広がりと、そこを老婆がサトウキビを杖にして歩き、その後ろには空が広がるという、そうしたものが一体となった沖縄の風土、状況というものが重要だったのではないかと思います。
 山田さんが写真を始めたばかりの1954年に琉球新報社の写真展に応募し特選を受賞した「光と影」という作品や、80年代以降に本格的にはじめたカラー写真を見ると、どちらかといえば光と影、あるいは色面による構成的な作風が印象的です。おそらく、こうしたモダンな作風のほうが、山田さんご自身の嗜好性に合うのではないかと思います。そうした嗜好性をあえて抑制しながら、山田さんは沖縄の人にも、本土の人にもあまり見向きもされなかった社会の周辺(あるいは底辺)で生きる人々の日常を、できるだけその「出来事性」においてとらえようとした。それらの写真は無造作にとられているようでありながら、山田さんの強い意志に貫かれているような気がします。それは自立した「作品」としての写真の出来からいうとインパクトに欠け、同時代的には評価の対象にはなりづらいものかもしれませんが、こうして半世紀を経て改めて見直してみると、作家性の抑制された画面からは、被写体の声がより一層響いてくるように思われます。

(*本文章は受賞作家フォーラムでの発言に補筆したものです。)


(1) 山田他、十数人が同行し、案内は二科会支部長の大城皓也による。1966年の岡本の沖縄再訪は二科会沖縄支部の招きによるものであった。(『山田實が見た戦後沖縄』琉球新報社、2012年、pp212-217参照)
(2)50年代は土門らのリアリズム写真が主流であったが、60年代以降は沖縄の写真家が沖縄の写真ばかりを撮ることに、本土から講師などの形で招かれた写真家たちが苦言を呈し、沖縄的なものからの脱皮を説くことが多かったという。そのなかで、62年に来沖した濱谷浩は、山田に対して、沖縄の記録を撮り続けるように言ったという。(座談会[山田實、仲里効、大城弘明、比嘉豊光]「時代の旅人 写真史散策~沖縄は何を記録してきたか~」琉球文化アーカイブ・沖縄写真史より http://rca.open.ed.jp/city-2002/photo/2zadankai/index.html)
(3)多木浩二「壁や塀は界隈の中にあり奥には人がいる」『生き残る写真「木村伊兵衛を読む」』アサヒカメラ増刊、1979年12月、p69
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by curatory | 2013-08-18 15:23 | 時評
2013年 02月 18日

志賀理江子 「螺旋海岸」展

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近年、最も話題になった写真展といえる志賀理江子さん(第28回東川賞新人作家賞)の展覧会「螺旋海岸」(仙台メディアテーク、2012年11月7日―2013年1月14日)を、終了間際の1月13日に見に行ってきた。
 その前々日に東京都写真美術館で行われ、私もパネラーとして出席した10時間討論会「世界はこうなったが、写真はこうある。」でも、志賀の作品及びこの展覧会のことは何度か話題にのぼった。中でも物議をかもしたのが、清水穣さんによる志賀作品のB級ホラー説であった。清水はcreepy photographyと呼ばれる、写真にエフェクトをかけてホラー的な装いをまとった写真と、志賀作品との類似性を示し、イメージの演出家としての志賀の才能を限定的に認めつつ、「螺旋海岸」展は写真を役者に仕立て、追憶を「喪」として見事に演出したものと分析した。そこには、志賀の写真自体はB級ホラー的なワンパターンのエフェクトで成り立っているにもかかわらず、演出によって視る者をカタルシスに導いているとする視点からの、手厳しい批判がこめられている(注1) 。
 多々あるcreepy photographyのなかから志賀のイメージに似たものだけを抽出して、B級ホラーとの同一性を断じる清水の説にはやや強引なものもあるかと思われるが、志賀の写真は確かに清水がcreepy photographyとの共通項として分析する「流れる光や水(エクトプラズム、幽体、正体不明の光、血、体液など)」、「部分的身体(切り離された手、身体のありえない箇所で突出する部位)」、「正体不明の物体、死体(エイリアン)」、「ミステリーサークル(自然の中の幾何学図形)」といった要素が頻出する(注2) 。
 だが、タルコフスキーの映画にもこうしたイメージはよく見かけるが(たとえば「鏡」のなかに現われる浮遊する身体を筆頭に、随所に現われる水や光、正体不明の物体、霧の立ち込める風景など)、彼の映画をB級ホラーとは呼ばないことを考えると、B級ホラーというのはこうしたイメージの累積だけによって出来上がるものではないはずだ。B級ホラーに該当するためには、イメージに加え、安価な通俗性というものが必須となっているのではないだろうか。
 志賀の写真には、実のところ、この「安価さ」も際立ってある。たとえば、男性の胸を木が突き破っているように見える写真では、上部にある木の根の先に、空から吊るしたワイヤーのようなものが見える。暗闇のなかに浮かぶ白い石の写真では、背面には色が塗られていないことがわかる。山高く積み上げられたビニール袋の中身は、どこかでもらってきたとしか思えない紙くずのようなものである。志賀の多くの写真はこうした安価な手仕事感で満ちている。
 だが、その安価さはB級ホラー感を増すというよりは、その作品が草の根的な人力を頼りに手間暇をかけて設えられた手わざと労力の集積であることを、見る者に伝えている。それは志賀の写真に写された人物からもうかがえることで、どう見ても写真馴れをしているとは思えない年嵩の人物たちが奇態を演じている様からは、その写真が生み出されるまでに志賀と被写体の間で地道な対話の積み重ねがあったことが想起される。そして、それらの細部が、志賀の写真をエンタテイメントな消費を促すだけの通俗性とは一線を画する要因をなしている。
 それは清水が指摘するような、写真外の言説に裏打ちされた「志賀さんはよく頑張っている」といった感情論とは別の次元で、写真から読み取ることのできる細部である。志賀の写真は、B級ホラーに限りなく接近し、陳腐に陥ってしまう契機を常にはらんでいるかもしれないが、それを引き止める要素も同時に存在する。両方の際どいバランスが、現実と異界を行き来するようなスリリングな感覚を引き起こしもするのであろう。
 先の写真美術館での討論会で、私も志賀の写真に少しふれたが、それは志賀の写真の「媒介」としての可能性についてであった。中平卓馬は「記録/媒介」について次のように語っている。
 「記録という行為は、記録者のある志向的意識の下に、自然的に存在し契機するばらばらの現実を組織化し、再び現実に投げ返してやることである。それ故に映像とは、記録者の絶対的な意識のフィルターを通しながらも、それ自体新たな現実としてそれを見る他者の再び同じプロセスに向って開かれているという意味で、いわゆる「作品」ではなく、一種の媒介であるということが言えるだろう。」 (注3)
 志賀の写真には、多様なレベルのイメージが何層にも重なりあっているように思える。特にアトリエを構えた北釜の住民との共同作業で作られたものは、志賀自身の絶対的な意識のフィルターによるエフェクトが加えられたイメージと、被写体の側が演じることによって生み出したイメージが拮抗して存在し、それが媒介となって見る者に新たなイメージを生み出す力をもつ。そこには様々なイメージが誘引される場としての力があり、それが魅力だと私は感じていた。
 しかし、仙台での「螺旋海岸」展を訪れてみて、その考えに再考を促された。そこでは様々なイメージが交錯してあるというよりは、志賀の生み出すイメージが突出していたという印象の方がはるかに強かった。
 これまでも志賀の展覧会はいくつか見てきたが、壁に額打ちされ、あるいはイーゼルに立てかけられた写真を前に、いつもイメージがそれらの枠組みから逃れたがっているような、ある窮屈さを感じていた。一方今回の展示では、土嚢に支えられて床から斜めに立つ木製パネルに支えられた数百点にものぼる写真が螺旋を描くようにぐるぐると林立し、そこでは志賀が生みだすイメージがはじめて自らの身体を得たような自足した存在感を有していた。さらに、会場で配られたリーフレットには、「写真のなかにいる人々はカメラを意識し、何かを演じ続けています。」「図の中心にある写真、これは「遺影」です。」といった断定的な言葉が連ねられ、イメージの創出者としての志賀の立場が強調されていた。
 それはとても「完成度の高い」展覧会であったといえる。だが、その自足性と引き換えに、被写体から漏れでる声に耳を傾け、写真のなかに視る者のイメージを投入させる写真の「媒介」としての契機は減じられていたように感じられた。北釜の集落を壊滅的に水底へと巻き込んだ津波という大きな災禍を経験した志賀にとって、まずは自身が写真のイメージを抱え込み、徹底的にコントロールすることを通じて、死者を悼む殯の儀式を執り行うことが必要とされていたのだろうか。
 幽霊のように確たる身体をもたないイメージは、どのような支持体を得るかによって、その存在形態を自在に変化させる。イメージとその身体について、そして、それを前にした自身の身体の反応について、思考をうながす展覧会であった。
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(会場写真 撮影:志賀理恵子)

注1) 清水の発表とほぼ同内容のものは下記にて参照できる。「写真の意味、あるいはB級ホラーの演出」http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri7_j/RericMFyCVbq1lfYT2G3
注2) こうした要素はB級ホラーに限らず、写真が発明された19世紀当初から盛んに心霊写真として用いられてきたものでもあることを考えると、志賀の写真は写真発明初期の原初的なイメージに通じているともいえる。それらは物質がすべて銀の粒子の疎か密かによって表されてしまうという、写真における物理的で、驚異的ともいえる事実から生み出されたものであった。粒子のわずかの溜まりですら、何かの物質を証立てる素因となり、光を扱うことによって、何もなかったはずのところに存在を現出させることができる。ベンヤミンも言うように、幽霊的なもののなかには、生命を生み出すすべての形式(分裂や生殖など)が、存在形式としてあらかじめ形成されているのである。写真によって自身の身体性を代補させようとする志賀の写真が、こうした形式を多用するのはさして不思議なことではない。
注3)中平卓馬「ドキュメンタリー映画の今日的課題」『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』ちくま学芸文庫、2007年、p136
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by curatory | 2013-02-18 15:11 | 時評