<   2013年 02月 ( 1 )   > この月の画像一覧


2013年 02月 18日

志賀理江子 「螺旋海岸」展

e0249498_14595828.jpg

近年、最も話題になった写真展といえる志賀理江子さん(第28回東川賞新人作家賞)の展覧会「螺旋海岸」(仙台メディアテーク、2012年11月7日―2013年1月14日)を、終了間際の1月13日に見に行ってきた。
 その前々日に東京都写真美術館で行われ、私もパネラーとして出席した10時間討論会「世界はこうなったが、写真はこうある。」でも、志賀の作品及びこの展覧会のことは何度か話題にのぼった。中でも物議をかもしたのが、清水穣さんによる志賀作品のB級ホラー説であった。清水はcreepy photographyと呼ばれる、写真にエフェクトをかけてホラー的な装いをまとった写真と、志賀作品との類似性を示し、イメージの演出家としての志賀の才能を限定的に認めつつ、「螺旋海岸」展は写真を役者に仕立て、追憶を「喪」として見事に演出したものと分析した。そこには、志賀の写真自体はB級ホラー的なワンパターンのエフェクトで成り立っているにもかかわらず、演出によって視る者をカタルシスに導いているとする視点からの、手厳しい批判がこめられている(注1) 。
 多々あるcreepy photographyのなかから志賀のイメージに似たものだけを抽出して、B級ホラーとの同一性を断じる清水の説にはやや強引なものもあるかと思われるが、志賀の写真は確かに清水がcreepy photographyとの共通項として分析する「流れる光や水(エクトプラズム、幽体、正体不明の光、血、体液など)」、「部分的身体(切り離された手、身体のありえない箇所で突出する部位)」、「正体不明の物体、死体(エイリアン)」、「ミステリーサークル(自然の中の幾何学図形)」といった要素が頻出する(注2) 。
 だが、タルコフスキーの映画にもこうしたイメージはよく見かけるが(たとえば「鏡」のなかに現われる浮遊する身体を筆頭に、随所に現われる水や光、正体不明の物体、霧の立ち込める風景など)、彼の映画をB級ホラーとは呼ばないことを考えると、B級ホラーというのはこうしたイメージの累積だけによって出来上がるものではないはずだ。B級ホラーに該当するためには、イメージに加え、安価な通俗性というものが必須となっているのではないだろうか。
 志賀の写真には、実のところ、この「安価さ」も際立ってある。たとえば、男性の胸を木が突き破っているように見える写真では、上部にある木の根の先に、空から吊るしたワイヤーのようなものが見える。暗闇のなかに浮かぶ白い石の写真では、背面には色が塗られていないことがわかる。山高く積み上げられたビニール袋の中身は、どこかでもらってきたとしか思えない紙くずのようなものである。志賀の多くの写真はこうした安価な手仕事感で満ちている。
 だが、その安価さはB級ホラー感を増すというよりは、その作品が草の根的な人力を頼りに手間暇をかけて設えられた手わざと労力の集積であることを、見る者に伝えている。それは志賀の写真に写された人物からもうかがえることで、どう見ても写真馴れをしているとは思えない年嵩の人物たちが奇態を演じている様からは、その写真が生み出されるまでに志賀と被写体の間で地道な対話の積み重ねがあったことが想起される。そして、それらの細部が、志賀の写真をエンタテイメントな消費を促すだけの通俗性とは一線を画する要因をなしている。
 それは清水が指摘するような、写真外の言説に裏打ちされた「志賀さんはよく頑張っている」といった感情論とは別の次元で、写真から読み取ることのできる細部である。志賀の写真は、B級ホラーに限りなく接近し、陳腐に陥ってしまう契機を常にはらんでいるかもしれないが、それを引き止める要素も同時に存在する。両方の際どいバランスが、現実と異界を行き来するようなスリリングな感覚を引き起こしもするのであろう。
 先の写真美術館での討論会で、私も志賀の写真に少しふれたが、それは志賀の写真の「媒介」としての可能性についてであった。中平卓馬は「記録/媒介」について次のように語っている。
 「記録という行為は、記録者のある志向的意識の下に、自然的に存在し契機するばらばらの現実を組織化し、再び現実に投げ返してやることである。それ故に映像とは、記録者の絶対的な意識のフィルターを通しながらも、それ自体新たな現実としてそれを見る他者の再び同じプロセスに向って開かれているという意味で、いわゆる「作品」ではなく、一種の媒介であるということが言えるだろう。」 (注3)
 志賀の写真には、多様なレベルのイメージが何層にも重なりあっているように思える。特にアトリエを構えた北釜の住民との共同作業で作られたものは、志賀自身の絶対的な意識のフィルターによるエフェクトが加えられたイメージと、被写体の側が演じることによって生み出したイメージが拮抗して存在し、それが媒介となって見る者に新たなイメージを生み出す力をもつ。そこには様々なイメージが誘引される場としての力があり、それが魅力だと私は感じていた。
 しかし、仙台での「螺旋海岸」展を訪れてみて、その考えに再考を促された。そこでは様々なイメージが交錯してあるというよりは、志賀の生み出すイメージが突出していたという印象の方がはるかに強かった。
 これまでも志賀の展覧会はいくつか見てきたが、壁に額打ちされ、あるいはイーゼルに立てかけられた写真を前に、いつもイメージがそれらの枠組みから逃れたがっているような、ある窮屈さを感じていた。一方今回の展示では、土嚢に支えられて床から斜めに立つ木製パネルに支えられた数百点にものぼる写真が螺旋を描くようにぐるぐると林立し、そこでは志賀が生みだすイメージがはじめて自らの身体を得たような自足した存在感を有していた。さらに、会場で配られたリーフレットには、「写真のなかにいる人々はカメラを意識し、何かを演じ続けています。」「図の中心にある写真、これは「遺影」です。」といった断定的な言葉が連ねられ、イメージの創出者としての志賀の立場が強調されていた。
 それはとても「完成度の高い」展覧会であったといえる。だが、その自足性と引き換えに、被写体から漏れでる声に耳を傾け、写真のなかに視る者のイメージを投入させる写真の「媒介」としての契機は減じられていたように感じられた。北釜の集落を壊滅的に水底へと巻き込んだ津波という大きな災禍を経験した志賀にとって、まずは自身が写真のイメージを抱え込み、徹底的にコントロールすることを通じて、死者を悼む殯の儀式を執り行うことが必要とされていたのだろうか。
 幽霊のように確たる身体をもたないイメージは、どのような支持体を得るかによって、その存在形態を自在に変化させる。イメージとその身体について、そして、それを前にした自身の身体の反応について、思考をうながす展覧会であった。
e0249498_1521350.jpg

(会場写真 撮影:志賀理恵子)

注1) 清水の発表とほぼ同内容のものは下記にて参照できる。「写真の意味、あるいはB級ホラーの演出」http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri7_j/RericMFyCVbq1lfYT2G3
注2) こうした要素はB級ホラーに限らず、写真が発明された19世紀当初から盛んに心霊写真として用いられてきたものでもあることを考えると、志賀の写真は写真発明初期の原初的なイメージに通じているともいえる。それらは物質がすべて銀の粒子の疎か密かによって表されてしまうという、写真における物理的で、驚異的ともいえる事実から生み出されたものであった。粒子のわずかの溜まりですら、何かの物質を証立てる素因となり、光を扱うことによって、何もなかったはずのところに存在を現出させることができる。ベンヤミンも言うように、幽霊的なもののなかには、生命を生み出すすべての形式(分裂や生殖など)が、存在形式としてあらかじめ形成されているのである。写真によって自身の身体性を代補させようとする志賀の写真が、こうした形式を多用するのはさして不思議なことではない。
注3)中平卓馬「ドキュメンタリー映画の今日的課題」『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』ちくま学芸文庫、2007年、p136
[PR]

by curatory | 2013-02-18 15:11 | 時評