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2013年 08月 23日

海に向かって、流れにまかせ、抗いながらもーミンストレル・キュイクのMer.rilyシリーズ

 
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ミンストレル・キュイク 「The Durian Fanatics」シリーズ展示風景 東川文化ギャラリー 

 2013年度海外作家賞のミンストレル・キュイクの作品は、中華系マレーシア人として、自身のアイデンティティはどこにあるのかといったことを、自身や家族が暮らす土地や風景、食べ物といったパーソナルな日常的なものを題材に写真を撮ることによって探ろうとするものだ。一見したところ平凡な日常のスナップに見える作品の背景には、マレーシアの政治的、社会的状況が密接に関わっている。マレー系が約6割、中華系が約3割、インド系が約1割、そして入植以前の先住民も暮らす多民族社会であるマレーシアでは、民族間の調和がとれた社会の実現はいまだ難しく、溝は大きいようだ。
 キュイクの実家があるマレーシア北西部の海岸沿いにあるパンタイ・レミスは中華系が多く暮らす町で、彼女が今回展示することになった「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」シリーズから編まれたシークエンスの大半はこの町で撮られたものだ。当初東川での展示を検討したものの、スペースの都合によって展示を見送った「See the Water」は、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」シリーズをもとに構成されたものだが、今回の展示にはなかったパンタイ・レミスからクアラルンプールへと移動する視点が含められたものだった。海辺の家から、道中に垣間見えるマレー風のヴァナキュラーな家、そしてクアラルンプールのマンションの窓からとらえられる高層ビル群。それぞれの文化的、地理的、政治的地勢によって、場所は様々な表情を見せる。
 キュイクの関心は、外界―公共の場所、内面―私的空間がいかに相互に交渉しあっているかに向かっている。ある特定のコミュニティを構成する要素の基本となるものは、文化だろうか、地縁的関係だろうか、血縁だろうか、そういった問いかけを、身近なところから探ろうとする彼女の手法は、切実ながらもユーモアをもっている。キュイクは写真によって、中華系やインド系の住民を排除し、マレー系住民によってのみマレーシアという国を構成しようとする偏狭なナショナリズムに抵抗し、ナショナリズムとは違う共生の在り方を模索しているともいえるだろう。
 「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」というタイトルはよく知られた子供の遊び歌から来ているものだが、生まれてきた境遇に人生が大きく左右されつつも、すべてを否定的にとらえるのではなく、そのなかの楽しい部分もすくいあげていこうという気持ちもそこにはこめられているのだろう。キュイクの作品では、バイクで家の前を通過する人をとらえた「The villagers」のシリーズ
にもあるように、「移動」ということがとても大きな意味をもつが、移動と交通によって境界を横断していくことによって、何かが開かれていくことに対する希望もあるのではないだろうか。キュイク自身、海辺の小さな町であるパンタイ・レミスから海をわたり台湾に行き、さらにフランスにまで旅立つことによって新しい視点を獲得している。ちなみにMerというのはフランス語で「海」の意であり、海の近くで育ったキュイクにとって、海は新世界へとつながる戸口としてあったにちがいない。

  ボートを漕ごう  Row row row your boat
  ゆっくりと流れに乗って Gently down the stream
  陽気に楽しく Merrily, merrily, merrily, merrily
  人生は所詮夢なのだから Life is but a dream

 展示にあたって、キュイクに作品の背景となるマレーシアの状況や、コンセプトを説明する文章を書いてもらった。彼女の写真のもつ、時にユーモラスで親密な印象からすると、この文章はどちらかといえば生硬で、論理固めに腐心しているようにも思える。だが、一方で自分の心情を素直に吐露するところもあり、社会と内面を行き来する感情の揺れ動きを見ることもできるだろう。キュイクの作品を考える上でも、マレーシアの状況を知る上でも興味深い内容なので、以下に掲載することにする。

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ミンストレル・キュイク 「The Villagers」シリーズより 2009年

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「ホーム」シリーズ
text by ミンストレル・キュイク

展示シークエンス
1 The Villagers (村人たち)
2 The Durian Fanatics (ドリアン狂い)
3 The National Day (独立記念日)
4 The Market (市場)
5 The Sisters (姉妹)
6 The Afternoon Haircut (午後の散髪)

はじめに
 今回、私が東川町フォト・フェスタのために選んだ6つのシークエンスは、2008年から続くプロジェクト「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」からの抜粋です。故郷で撮ったシークエンスをグループ化して、まずアンサンブルとして提示するという当初のアイデアは、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」(2008~)で最初に出しました。これは2012年にノルダーリヒト国際写真フェスティバルに提案して採用されなかったものです。このフェスティバルのテーマ「自然の幻影としての風景」は、18世紀じみて、自己陶酔に過ぎましたが、同時に風景をまなざしの産物ではなく、活発な社会的空間として、また内的でありながら物質的なものとして、風景をコンテクスト化する動機付けとなりました。このグローバル化した時代に、自分の信じるものと絶えずつながり、かつ相反しながら、人は生きる道を選択しています。
 2012年の提案の中で、アルルで写真を学んだ学生時代からあったアイデアを再びつなげることで、自分の写真の実践の枠組みを表現しようとしました。この学生時代、私はドイツの社会学者フェルディナンド・テンニースが提唱した二つの概念―ゲマインシャフト(共同体)とゲゼルシャフト(社会)―すなわち、いわゆる「パンくずの跡」は社会のネットワークにある―ということを知りませんでした。伝統的な価値観が植え付けられたマレーシアの移民家族の中で育った中国人女性の私は、まずシンガポールの日本人工場で秘書として半年働くことで、二つ目の社会集団―ゲゼルシャフトの洗礼を受けました。その後、台湾(1994~1999)とフランス(2000~2006)で美術を学ぶ中で、別の形の社会集団の洗礼を受けました。社会に存在する一人の人間として、私は様々な社会的制約や、アイデンティティー、利害から来る緊張に常に身をさらしています。こうした経験が作品の前提になっています。写真は私にとって、ドキュメンタリーと物語性において、社会的距離と執着を探る媒体となっているのです。
 テンニースが主張する完璧なゲマインシャフトの表現である家族と生得的地位(母と娘のように生まれながらに得る立場)が、長年に亘り私の研究を支えてきました。しかし、このスタンスは内面から湧き出たものというよりは、むしろ実際の多くの試行錯誤から生まれたものです。何を記録し、何を見せるべきかの決断にせまられながら、私はヒエラルキーの縦社会で、残念ながら家族もですが、自分の活動を守ろうとしています。
「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は私とその家族、そして母国との関係性を追求した今も継続中のプロジェクトです。

背景
 「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は、「P comme Paysage (P for landscape)」というかつてのアイデアを受けた、風景を成すものの意味を理解するという私の探求の続きです。2005年に、「P comme Paysage」から新たに「Columbus Day」という写真プロジェクトが生まれました。これは、コロンビア人の建設労働者や海外アーティストとの出会いを通して、アメリカの移民文化に触発されたものです。ロングアイランドにあるロバート・ウィルソン創設のウォーターミル・センターでのレジデンス中のことでした。また、その後に姉一家を訪ねたシアトルへの旅も契機となりました。また、それと並行して、「RROSE - A Story of Two Worlds」という本のプロジェクトにも取り組みました。フランスのアルルと、マレーシアの故郷パンタイ・レミスという二つの町を並列することで、この相容れない二つの風景が私の物の見方やイメージ作りをどう構築してきたかを検証しようとしました。この本の二版は2009年ヒューストン・フォトフェストの国際ディスカバリー展にて展示されました。
 私は1994年、18歳のときに台湾で勉強するためにマレーシアを離れました。マハティール首相の時代、1997-98年のアジアの経済危機を受けて、マレーシアの政治は急進的な再建期を迎えました。1998年に副首相を解任されて間を置かず、アンワル・イブラハムとその支持者が着手した「リフォルマシ(改革)」は、まだ台湾で美術を学んでいた私にも大きな影響を与えました。1999年の卒業後も、両親は反対しましたが、マレーシアには戻りませんでした。2000年には絵画の勉強を続けるためにフランスに渡りました。数度帰国しましたが、その度に2001年の9.11から起きた一連の地球規模のムスリム化を受けて、マレーシアもまた国の思潮が劇的に変わったことに気づきました。2007年、30代前半だった私はマレーシアに戻りました。そして新たな物の見方や考え方に敵対的な態度を取るこの国で、私はかつて属した社会と一線を画することになりました。アイデンティティーが常に政治的にならざるをえない華人マレーシア・ディアスポラにとって、帰属意識ははかない幻に過ぎなかったのです。

比較
 フランスで教育を受けている間、生き残りの本能から、私はデカルト派の影響と均衡を保ちたいと考えました。整然として、他人行儀、冗長で、可視的、合理的、歴史的、家長制のフランス文化というものを経験した後で、世界を理解する別の道はあるのだろうか。アルルで写真を学ぶマレーシア人学生として、私が徐々に受け入れたことは、日々の葛藤は言うまでもなく、フランスの影響と私の生まれが折り合いをつけることなどあり得ないという事実です。とはいえ、プロバンスでの生活が、深い眠りについていた、故郷で家族と過ごした風景の記憶を、明白かつ感覚的なものとして、私の中に呼び覚ましたのです。つまり土地とのより強い結びつきは、単に視覚や景色を見ることではなく、日常の中で「歩く、耕す、料理する、食べる、伝統的な儀式を行う」といった共同体への個人の参加が不可欠だ、という結論に達したのです。

マレーシアでの状況
 1957年のイギリスからの独立以来、劇的な近代化の道をたどってきたマレーシア。時の首相トゥン・アブドゥル・ラザクが1971年に着手した新経済政策のもと、マレー人優位という概念は、マレーシアをカンプン(マレー語で「村」)から消費と保守のムスリムの国へと変えました。
 何をマレーシアの風景の魔法と力と見なすのか、集団の記憶として残るのは何か。50年が経ち、さらに多くの高層ビルと数多のショッピングモールや機能不全の建築物が、徐々に地平線を覆っていく。新たな開発が、我々の伝統的な建物に取ってかわり、昔からの地域を破壊し、手に入る全ての荒れ地や緑地を搾取しているのは言うまでもなく、マハティールのランドマークとして建てられたクアラルンプール随一の象徴、100階立てのツインタワーは、今やオフィスやショップとして使われています。少しずつ、我々共通のイマジネーションと記憶を呼び起こしうる風景は、街の庭の一画やバルコニーへと減じていき、ともすると古い写真に残るのみです。

家族とプンクトゥウム
 結果的に、未だ伝統を残す家族のような社会の単位は、個と土地の間の会話を成り立たせる最後のフロンティアです。社会的制約と母国の中で私の追求はつまりは家族性の構造へと結びつきます。
 母国と同様に、家族はプンクトゥウム、生まれたときからある傷。「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」の目的は、現実の状況で起こる家族のドラマやテンションを最小化しながら、理想化しないで、一つの社会の単位として被写体を客観的に研究することです。そうすれば、思いがけずプンクトゥウムを乗り越える方法が見つかるかもしれない。私にそれができるだろうか。能動的な社会の一員として、どこに私の立ち位置を置くべきかを真剣に考え始めた、その風景の新たな方向づけの過程こそが「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」です。去ることと留まること、受け入れることと拒否することの間で、絶え間ない創造のプロセスであると考えることによってのみ、確固たる社会の境界は、可能になります。
 作品の多くが家族のアルバムのようではあるけれど、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」は重層的なつながりを示唆するサブテーマが迷宮のように入り組んでいます。その中には私の働くクアラルンプールと生まれ育った漁村パンタイ・レミスという主にマレーシアの2カ所の写真が含まれます。場所に関しては、外界―公共の場所、内面―私的空間、という二つのタイプの写真を撮りました。写真のほとんどは、祭りを祝うために家族が集うパンタイ・レミスの旧正月のものです。また、姪や甥のポートレート、父が庭で育てたり私が地元の市場で買った植物や野菜、果物のステージフォトなど、サブシリーズも徐々に生まれています。両親の家の向かいのパーム油のプランテーションのような没個性のありきたりの風景、この中を見知らぬ人が動く連続写真なども多い。このぶれた姿こそが、時と場所の経過とその痕跡を示し、これは写真というアートによってのみ可能なものです。
 何よりもまず、「Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily, Mer.rily」を、この風景を残してくれている人々に捧げます。これらの写真によって、観客は、ほろ苦い気持ちで、全ての風景の原型とも言える、もっともありきたりな風景―故郷―と相互に見つめ合う気持ちを呼び起こされるでしょう。
 全てのプンクトゥムには癒やしがある、と強く信じて。
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ミンストレル・キュイク 「The Afternoon Haircut」シリーズより 2008年

(翻訳 宮地晶子)
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by curatory | 2013-08-23 00:49 | 時評
2013年 08月 18日

日常と出来事‐山田實の写真

 2013年度の飛彈野数右衛門賞を受賞した山田實氏の受賞作家展を開催するにあたり、展示する写真を選ばせていただいた経緯から、いくつか考えたことを述べさせていただこうと思います。
 展示写真については、今回飛彈野数右衛門賞受賞の対象となった沖縄県立美術館で行われた展覧会カタログと、未来社から発行された沖縄写真家シリーズ第一巻に収録されている写真のなかから選びました。
 これらの写真を通覧して感じたことの一つは、よく指摘されていることですが、山田さんの写真というものはやはり、1950年代前半に土門拳が中心となって牽引したリアリズム写真運動との関係が大いにあるということです。このリアリズム運動というのは1950年に『カメラ』という写真雑誌の月例写真コーナーのゲスト審査員となった土門拳を中心に展開されたもので、土門は、自らが生きる風土と社会の現実を直視することを、全国のアマチュア写真家たちに訴えました。

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山田實 靴磨きの少年 那覇市国際通り 1956年

 第一回飛彈野数右衛門賞を受賞された小島一郎さんも、このリアリズム運動の影響を受けるなかから、自らが暮らす青森を独自の視点とモノクロの色調によってとらえられていました。ですが小島さんの場合、「下北」や「津軽」を題材とした写真集が早いうちから評価されたこともあって、東京を中心とした「写壇」ともいうべきものをかなり意識されながら作品の制作を続けられておりました。「中央」に対する「地方」というものを、いかにして写真に収めることができるかということに、かなり心をくだいております。そのため、「極北」的なものを象徴的にあらわすような作風が意識的にとられることにもなるのですが、山田さんの場合、リアリズム写真の影響を受けながらも、「中央」に対する反発や気負いのようなものがあまり見受けられないような気がします。
 山田さんの場合、中央が唱えるリアリズム写真の影響を受けた、というよりは、金子隆一さんもカタログのなかで指摘されていらっしゃるように、山田さんご自身のシベリアでの抑留経験によって「社会から疎外された人たちに目がいくようになった」という、山田さんご自身の問題意識が土門らのリアリズム写真によって顕在化された、ということがふさわしいように思います。
 山田さんの写真は、見てすぐに何かをアピールするような強い構成であったり、沖縄の「占領」の現実を全面に打ち出すといったような写真ではありません。山田さんの写真を見ていると思い出されるのが、岡本太郎が撮った写真です。金武の共同洗場など、同じ場所を撮った写真もいくつか見受けられます。ご存じのとおり、岡本太郎は写真家ではありませんでしたが、雑誌での「芸術風土記」という連載のために50年代後半に精力的に日本各地を巡り、取材の際にはたえずカメラを持参して写真を撮影していました。沖縄にも59年に訪れており、フィルムで70本ほどの写真を撮影しています。余談ですが、岡本は66年にも沖縄を訪れイザイホーの神事を撮影するかたわら、死者を埋葬した後生の場を訪れ、ある事件のひきがねをひいてしまうのですが、その撮影のときに山田實さんも同行されていたようです(1) 。
 岡本の写真というのは、沖縄の日常生活をとらえたものだったのですが、今のように手軽に写真が撮影できる時代とは違って、庶民の日常というのは、それを写真に撮ろうという意識をもって写していかないと、実際はなかなか記録に残っていないものです。趣味で写真を撮影するアマチュア写真家はどちらかといえば、サロン調のよくできた写真を撮るほうを好みます。岡本が沖縄について論じた『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』(61年)に収録された写真を見た沖縄の詩人の高良勉さんが、「「毎日くり返される私たちの生活を写真に撮ることに、何の意味があるのか」と思った」と記されていましたが、日常生活というものは、なかなか見過ごされがちなものです。しかも、リアリズム写真運動は1950年代後半には下火になってきて、1960年代には沖縄を訪れる東京の写真家たちは、沖縄の写真家が沖縄的リアリズムばかり題材に写真を撮ることに対して、もっと外に目を向けなければいけないといったアドバイスをしていたそうですから、山田さんのように、沖縄の庶民の日常を意識的に撮り続けるということは、やはり特異なことであったのではないかと思います(2)。

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山田實 水汲みの姉妹 那覇市安里 1958年

 また、山田さんの写真は、一枚の写真のなかに構図的に出来事を完結させてしまおうという意図があまり感じられません。何かの最中であるという写真がとても多い。そのため、一枚の写真としての完結度からいうと、どこか中途半端なところがあるようにも見えます。ですが、それは庶民の「生活」というものを、山田さんが写真の表現の手段として搾取しないために選択された方法であり、動きのなかで開示する「出来事」として、写真をとらえようとしていると考えられたからではないか、というようにも感じられます。
 以前、多木浩二さんが木村伊兵衛の写真について、「おそらくその空間独特の感覚を視覚化して、人々に自らが生きている世界を具体的なままに開示してきたことにかれの写真が長つづきした原因があったのであろう。論理化できず、対立するわけでもない微妙な物と人間のまじわり――それが出来事なのだが――を、見る方法にしていったところに木村さんのユニークさがあった。」(3) と記していますが、山田さんの写真にも、こうしたあり方は通じているように思います。ここでも展示している1972年に撮られた海洋博予定地を歩く老婆の写真がありますが、写真集のなかで仲里効さんも触れられていますが、この写真を写真家・林忠彦に見せると空の部分をトリミングするよう勧められ、その通りにして二科会に出したところ入選したという逸話があります。それによって、モチーフが明確になり、画面の強度は上がるかもしれませんが、山田さんにとって重要なことは、やはりサトウキビ畑の広がりと、そこを老婆がサトウキビを杖にして歩き、その後ろには空が広がるという、そうしたものが一体となった沖縄の風土、状況というものが重要だったのではないかと思います。
 山田さんが写真を始めたばかりの1954年に琉球新報社の写真展に応募し特選を受賞した「光と影」という作品や、80年代以降に本格的にはじめたカラー写真を見ると、どちらかといえば光と影、あるいは色面による構成的な作風が印象的です。おそらく、こうしたモダンな作風のほうが、山田さんご自身の嗜好性に合うのではないかと思います。そうした嗜好性をあえて抑制しながら、山田さんは沖縄の人にも、本土の人にもあまり見向きもされなかった社会の周辺(あるいは底辺)で生きる人々の日常を、できるだけその「出来事性」においてとらえようとした。それらの写真は無造作にとられているようでありながら、山田さんの強い意志に貫かれているような気がします。それは自立した「作品」としての写真の出来からいうとインパクトに欠け、同時代的には評価の対象にはなりづらいものかもしれませんが、こうして半世紀を経て改めて見直してみると、作家性の抑制された画面からは、被写体の声がより一層響いてくるように思われます。

(*本文章は受賞作家フォーラムでの発言に補筆したものです。)


(1) 山田他、十数人が同行し、案内は二科会支部長の大城皓也による。1966年の岡本の沖縄再訪は二科会沖縄支部の招きによるものであった。(『山田實が見た戦後沖縄』琉球新報社、2012年、pp212-217参照)
(2)50年代は土門らのリアリズム写真が主流であったが、60年代以降は沖縄の写真家が沖縄の写真ばかりを撮ることに、本土から講師などの形で招かれた写真家たちが苦言を呈し、沖縄的なものからの脱皮を説くことが多かったという。そのなかで、62年に来沖した濱谷浩は、山田に対して、沖縄の記録を撮り続けるように言ったという。(座談会[山田實、仲里効、大城弘明、比嘉豊光]「時代の旅人 写真史散策~沖縄は何を記録してきたか~」琉球文化アーカイブ・沖縄写真史より http://rca.open.ed.jp/city-2002/photo/2zadankai/index.html)
(3)多木浩二「壁や塀は界隈の中にあり奥には人がいる」『生き残る写真「木村伊兵衛を読む」』アサヒカメラ増刊、1979年12月、p69
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by curatory | 2013-08-18 15:23 | 時評