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2014年 09月 07日

ヨルマ・プラーネン―歴史と想像力が交差する劇場としての写真

 写真を撮影することには、「見る―見られる」の不均衡な権力関係が避けがたく内包されているとすれば、一体どういう写真を撮り続けることができるのだろうか。
 1970年代頃からラップランド近くのフィンランド北部で、風景やサーミ人たちをいわゆるドキュメンタリー的な形で撮影していたプラーネンは、ある時期からそうした写真を撮り続けることに疑問をもちはじめたという。1978年にはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が出版され、80年代はポストコロニアリズムが全盛を極めた時代だ。
 1988年、プラーネンはラップランドに住むサーミ人の詩人で音楽家の、ニルス=アスラク・ヴァルケアパーのところで、モノクロで撮影されたサーミ人のポートレイトに出くわす。それらがパリのミュゼドロムに収蔵されている、1884年に撮影されたサーミ人のアーカイブの一部であることを知ったプラーネンは、その写真を用いて作品を作ることに決めた。1991年から97年にかけて制作された「想像上の帰郷」シリーズは、アーカイブの写真を再撮影し、それが撮られた場所に戻す試みとしてはじめられた。

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 Jorma Puranen 「想像上の帰郷」シリーズ展示風景

 プラーネンがしつらえた舞台のような風景のなかで、大地から立ち上がる透明なアクリルボードからこちらをじっと見つめる人物たちは、演劇の役者のようにも見える。写真家は彼/彼女らを舞台上に好きなように配列する権限をもつ舞台監督のようだ。だが、写真家が再撮影された写真にいかなる采配を振るおうとも、彼/彼女らはまったく違う時間のなかを生きている。人類学的に調査され、標本のように見られるべきものとして撮影された彼/彼女らは、圧倒的な存在感をもったまなざしのもとで私たちを見つめ返す。写真家と、写真のなかに写る人物との間に横たわる絶対的な隔たりは、写真家と被写体の間に生じる「見る―見られる」の権力関係を無化している。
 プラーネンが次いで取り組んだ「影、反射、そうしたすべての物」のシリーズでは、数世紀前に描かれた、美術館でも来訪者にあまり見向きもされないようなポートレイトの絵画が撮影されている。プラーネンは撮影を単なる複写に終わらせるのではなく、その時空間ならではの光、反射、周りの景色の映り込みを画面に留まらせることを選んだ。そして、写される肖像画も、全体像ではなく、視線が強調されるバストショットとなっている。光の反射や窓の映り込みを眼でかき分けるようにして、そこにあるものを見ようとするとき、肖像画に描かれた人物の視線はひときわ際立って見えてくる。こちらが見ているというよりは、肖像画によって見られているという感覚すら生まれてくる。そして、写真のなかに、写真が写されたときの瞬間の光や反射だけでなく、写真を見ている現在時の室内の光や反射も紛れこんでいることを認識したとき、肖像が描かれた時間とも、写真が写された時間とも、現在の時間ともいえない、奇妙な表象空間とでもいうものが、ふっと立ち現れるような気がする。

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 Jorma Puranen 「影、反射、そうしたすべての物」シリーズ展示風景

 最新作の「凍てつく眺め」では、眼前の風景をそのまま写し取るのではなく、磨きのかかった黒光りする板に反射させるという操作を加えることによって、風景をあえて茫漠とした見えづらいもの、瞬間的ではかないものに変換する。そうすることで、風景の背後に隠れたものに対する、観る者の地理的、歴史的想像力を喚起させる道を開こうとしている。
 プラーネンは対象をすでにそこに自立的に存在しているものとしてとらえるのではなく、観者やその場の光などの身体性や時間性、その他様々な要素に左右されるものとして視覚化する。それはその都度、その一回性において成立する、劇場のような写真なのだ。そこには、写真における「見る―見られる」の権力関係を相対化するための可能性も提示されているだろう。

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 Jorma Puranen 「凍てつく眺め」シリーズ展示風景
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以下、受賞作家展の会場で配ったシリーズ解説を付しておく。


<想像上の帰郷  Imaginary Homecoming>
 パリ人類博物館保存のラップランド先住民サーミ人のポートレイトに触発されたプロジェクト。これは1884年フランス写真家G.ロッシュがローラン・ボナパルトのラップランド探検に同行の際に撮影したもの。ここに写るサーミ人の多くは、奇しくもプラーネンが20年に渡り撮影していたサーミ人の先祖だった。
 プラーネンは過去と現在の対話を試みるため、アーカイブのポートレイトを、それが写された場所に帰すことを考えた。まずポートレイトを再撮影してフィルムにプリントし、アクリルボードにマウントした。そしてそれを、かつてその写真が撮られた風景のなかに置く。プラーネンにとってはそれが、隠喩的な意味での彼らの帰郷であった。
 写真はその始まりから地理的探検や、植民地化と運命を共にしてきた。ラップランドで撮られた写真が、その地域の「自然の征服」と期を同じくするのは、偶然ではない。古くから歴史家は、ラップランドをメランコリックな最北の地と描写してきた。打ち捨てられ、名も無い場所、英雄的な探検者だけが描く場所。プラーネンはこうした歴史に異を唱え、ラップランドをサーミ人が住み形作ってきた歴史的な風景として理解しようとした。
 過去は想像が作りだしたもので、写真が提供するのは過去の断片にすぎない。全体を見るためには、想像力を要する。プラーネンは彼らの想像上の帰郷から立ち上がる新たな風景に期待する。


<影、反射、そうしたすべての物 Shadows, Reflections and All That Sort of Thing>

 ヘルシンキにある14~19世紀の芸術作品をコレクションしたシネブリュコフ美術館で、絵画に反射する光に魅せられて始まったシリーズ。ブルジョアたちを描いた古いポートレイトを撮影することで、描かれた者の過去を呼び覚ます。「起きなさい。そこにいるのは知っているよ。」
 写真のプロセスが強調されることで、本来の絵に対する焦点が物理的な層に紛れ、見る者の視線は作品のディテールを捉える。普段とは違う角度から絵を見ることで、見た者は一瞬と永遠の間の緊張、光のきらめき、そして何世紀にも亘る古色から立ちのぼる脆さを呼び覚まされる。
 自然光が絵画に反射することで、ある部分は露光過多になり、ある部分は闇に沈む。それはいわゆる「良い写真」とは異なる。このシリーズは、ポートレイトとそこに描かれた者、その写真との関係性、そしてそこに用いられる媒体が、我々の「イメージ」に対する認識にいかに影響を与えるか、問いかけている。

<キャンバスを旅する  Travels on Canvas>
 「影、反射、そうしたすべての物」のサイド・プロジェクトとして始まったシリーズ。北極遠征にまつわる歴史画、特に写真発明以前の絵画に興味を持ったプラーネンは、そこに絵画としてではなく、異質の人々、文化、風景を映す記録としての価値を見いだす。
 「Travels on Canvas 1」で撮られた「テント周りのラップ人」(1827年Alexander Laureus作)などは、初期のエキゾティシズムを表すいい例だ。プラーネンが「他者」や「エキゾチックなもの」を示す絵画に関心をよせるのは、北欧圏の植民地の歴史が、多くの人々の記憶から抜け落ちてしまったことと無関係ではない。
歴史画は、異なる時代や場所に不意に道を開く。絵画は、記憶の引き金となり、時間とノスタルジアの感覚を強く呼び起こす。そしてまた、風景に埋め込まれた歴史を検証し、活性化するための様々な声と視点をもたらす。
 プラーネンは、ある種、個人のアーカイブ的なものとして、歴史的なイメージを集めるが、それは絵画を模倣し、そのコンセプトを写真にあてはめようとするものではない。歴史画を間近に見、経験し、そこに付随する曖昧な空間を私たちの時代に広げようとする試みである。

<凍てつく眺め>  Icy Prospects
 「影、反射、そうしたすべての物」の撮影中、ニスが厚く施された絵画の表面に、反射してゆらめく美術館の外観を見た。そこからプラーネンは、細かくやすりをかけた木製の板に、光沢のある黒を塗り、鏡のように反射するテクスチャーを出すことを思いつく。そして凍てつく北の風景に持ち出した板に映じる風景の断片を撮影する。それはあたかも、精密な角度の光だけが銅板にイメージを映し出すダゲレオタイプを思い出させる。下地と筆跡と反射が分かちがたく重なって、絵画的で芸術的な作品になった。
 Icy Prospectsは、北極探検の歴史と、ノールカップ岬での体験から着想を得た。ヨーロッパ最北端のこの岬では、世界中から来た旅行者が、深い霧の中、北極海のさらに先を視ようと目をこらす。幻覚を起こすようなこの作品は、北極海で道を見失った昔日の遠征隊が視た景色に呼応しているかのようだ。
 プラーネンは20世紀初期に描かれた風景と、その背後にある自然の力に対する「崇高な恐怖」という哲学的なコンセプトと、自身がラップランドで撮影した写真の間に対話を生み出そうとする。北方の感覚的な経験にだけ焦点を当てているのではない。様々な運命と歴史、場所や出会いが作り出す場の可能性に興味があり、事実とフィクション、幻想と地理的想像の所産を映し出す場として、北極地方を用いている。

(翻訳協力:宮地晶子)
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by curatory | 2014-09-07 02:37 | 海外作家賞
2014年 09月 01日

掛川源一郎と社会的風景(試論)

 掛川源一郎は、北海道ゆかりの写真家や作品に贈られる東川賞特別作家賞を1991年(第7回)に受賞している。そのときに寄贈された作品が、今回の札幌芸術祭の赤れんが庁舎でも一部展示されている。
 掛川源一郎の写真は、バチラー八重子やアイヌの人々を写した写真、沖縄から本土へ、内地から北海道へと移った開拓移民の仲宗根一家を長年にわたって撮影した写真など、北海道の大地に根差し生きる人々に対する共感に満ちたものだ。掛川はヒューマニズムに裏打ちされた「社会派写真家」、「リアリズム写真家」といったくくりで紹介されることが多い。だが、そうしたカテゴリーは写真に写された対象によって写真家を十把一絡げにまとめた乱暴ともいえるもので、あまり多くのことを語ることはできない。
 「社会派写真家」、「リアリズム写真家」ということで、すぐに念頭に浮かぶのは、1950年から54年まで土門拳がアマチュア写真雑誌である『カメラ』の月例投稿写真のコーナーを舞台に提唱した「リアリズム写真運動」だ。土門は「カメラとモチーフの直結」と「絶対非演出の絶対スナップ」をテーゼとし、混乱のなかを生きる日本人の生活を、写真家の主観や演出を排除して客観的に写すことを、アマチュア写真家たちに鼓舞した。土門は、「戦後日本においては、傷痍軍人や、浮浪者といったものが、「敗戦日本の最も典型的な社会的現象」や「存在」であり、「それらをモチーフとすることは絶対に正しいし、またしなければならない。」と言っている。リアリズム写真運動において重要なのは、何を「テーマ」に撮影するかということであり、その「テーマ」を正しく伝えるためには、それをもっともよく表す「典型的な」写真を撮ることが最善の方法とされる側面があった。
 掛川も、1950年代には精力的にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、入選している。そのなかでも特に評価の高かったのが、1954年に「カメラ毎日」で組写真部門一等をとった「神の使徒、アイヌの老姉弟」だろう。その選評においては、牧師姉弟がアイヌ出身者であるという点が、見るものの心をうつ力強いテーマたり得たという指摘を受けている。また、これ以降、掛川は「アイヌ」を「テーマ」として掘り下げ、粘り強い撮影を行っており、掛川の姿勢は「リアリズム写真運動」に通底するものがあったかと思う。
 だが、ここで確認しておきたいのは、掛川が「テーマ性」ということにおいては「リアリズム写真運動」との共通項をもちながらも、それほど「典型」を求めようとはしなかったということだ。掛川の同じ写真を名取洋之助と木村伊兵衛が「アサヒカメラ」で評しているが、そのなかで指摘されたことは、アイヌという感じがでていないということだった。掛川は「アイヌ」をテーマとしながらも、アイヌらしさを写す事よりも、写された人物が、いかにして生活しているかということのほうに重点をおいていた。そして、その生活という観点においては、北海道という土地、風土が圧倒的に重要な意味をもっているということを十分に理解していていたのだろう。それは、掛川が室蘭中学校在学時代から熱中していたという園芸や、植物への関心に負うところも多いにちがいない。あるいはむしろ、植物や自然への興味といったものが、自然とともに生きるアイヌの撮影へと向かわせたと言っていいのかもしれない。掛川は仲宗根家族をはじめて訪れたときの感想として「道路わきや家々のそばに、掘り出された根株が巨大な城砦のように積まれているのに驚き、圧倒された」と記しているが、そうした圧倒的な自然への興味がその後の撮影への原動力となったのではないか。そして、そうであれば、「アイヌ」や「移民」といったテーマから浮かび上がる「典型」ではなく、土地に根差した個別具体的な生活へと彼が関心を向けたのも自然なことだろう。

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掛川源一郎 バチラー八重子『若きウタリに』 (研光社、1964年)より

 掛川の代表作である、晩年のバチラー八重子をとらえた『若きウタリに』(1964)も、まず人が出てくるのではなく、「1.冬の有珠コタン」という章からはじまり、八重子がすんでいる場所、土地の様子の紹介からまずはじめられる。次の章も「2.苺と日曜学校」となり、「苺」という植物を介した八重子の生活の紹介となっている。そして、「3.コタンのくらし」「4.コタンのこども」と続いて「5.アスパラガス」という章がある。この章立ては編集者の意向が強かったようだが、そうであれ、掛川は人だけに焦点をあてるのではなく、自然と人間が、いかに相互に分かちがたく結びついているかということを、写真に撮りおさめていたことがわかるだろう。
 だが、そうかといって、掛川は同時代に支配的な文脈である、典型論からは完全に距離をおいていたというわけではない。掛川の写真は生活に根差したものが基本にあるが、時に戦中のプロパガンダ写真を彷彿させるような、下からあおった形で顔を撮影したもの、あるいは、どこか遠くをまなざして高邁な精神を象徴しているような人物を写した写真がある。こうした写真を見ると、木村伊兵衛が戦時中に満州で撮影し、そこが理想の国であることをプロパガンダ的に表した写真集「王道楽土」に出てくる人々のポートレートを思い出す。こうした写真は、個別具体的な生活というよりは、ある種の典型的な理想像のようなものであり、掛川が表現したいものを、被写体に対してあてはめてしまっている例といえる。「典型」、あるいは普遍性を、写真のなかにとりおさめようとすることは、「リアリズム写真」における大きな誘惑でもあった。
 「リアリズム写真」というのは、日本においては戦後、土門らによって展開された「リアリズム写真運動」をさすものとして主にとらえられがちだが、これはもっと視点を広く転じてみると、1910年頃から欧米で展開された、絵画的な写真(ピクトリアリアリズム)を否定し、カメラという機械の眼を伴った写真独自の表現を目指したモダニズム写真と密接にリンクしたものだ。モダニズム写真は、単純化すれば、モホリ・ナジらの前衛写真や、ありのままの世界を写しだしたといわれるアジェの写真に現れているようなシュルレアリスム的写真にはじまり、その後のウォーカー・エバンスなどのドキュメンタリー写真を経て、カルティエ=ブレッソン、ウィリアム・クライン、ロバート・フランクらに至るような系譜をなしていく。モダニズム写真、特に技巧をこらさずありのままのリアルな世界をとらえようとしたストレートフォトグラフィの流れにおいては、具体的で個別の世界を写しつつも、そこに「普遍的」な風景を描出しようとする。というのも、そうした普遍性を加味することによってはじめて、単なる記録とは違う、写真における「芸術」としての存在意義を主張することができるからだ。
 日本的リアリズム写真が、「テーマ」という内容に重点があったのに対し、モダニズム写真は、テーマだけではなく、その「形式」も問われることになる。たとえばカルティエ=ブレッソンに代表されるようなモダニスト・フォトジャーナリズムと分類される写真においては、演出されたのではない、「ありのままの人生」を写真にとらえたことを示すために、相手が無意識のうちに、自然な形で撮影したということを強調する必要があった。そのため、写真のなかの人物がカメラを見つめているようなことはほとんどない。また、カルティエ=ブレッソンの場合は、幾何学的な構図を写真のなかにあてはめることによって、「テーマ」や「人生」とは切れたところで、一枚の写真としてそれが自立的に完成することを求めた。
 日本においても、たとえば掛川よりも15歳ほど年下で、掛川と同じ1950年代にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、早くから脚光を浴びていた青森の写真家、小島一郎(1929-64年、2010年第一回東川賞飛騨野数右衛門賞)も、このモダニズムの洗礼を受けていたといえるだろう。小島の写真の特徴は、青森の厳しい自然のなかに暮らす人々の生活や、風景、生活に根差したモノをとらえながらも、それを卓越した造形感覚と独自の暗室操作によって、モダンな造形性と両立させたことだった。小島はそれを「構図」という点だけではなく、「極度にきりつめたトーンの効果や粒子のアレ」(渡辺勉評)を用いることによって、ローカル・カラーだけではなく、象徴性や普遍性まで含みこんだ作品に仕上げていく。
 こうしたモダニズム的な写真家と比べたとき、掛川の写真は、「形式」という点においては、あまり目立った特徴はないように思える。撮りたい対象を中心にもってくることが多く、非常にオーソドックスともいえる形で、対象にストレートに迫った写真に見える。たとえば、掛川と同じように、失われつつある民族、風習をとらえ、一世を風靡した濱谷浩が写した『雪国』(1956年)や『裏日本』(1957年)と比べてみても、そうした違いはうかがえる。濱谷の有名な「田植女」の写真では、造形的な要素を強調するために、被写体の顔が画面外に出されている。掛川の写真にはそうした造形的な処理はほとんど見受けられない。掛川の写真の被写体は、基本的にバチラー八重子、仲宗根一家、山本多助エカシといった風に、名前をもった個人として写されている。
 写真におけるモダニズム的なありかたは、1960年代後半以降、次第に批判にさらされることになるが、その転機となるのが1966年にネイサン・ライオンズがキューレーションし、ジョージ・イーストマン・ハウスで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」だった。そこでは風景の写真的表象は透明ものではありえず、社会的に形成されたものであり、写真的モダニズムが自明のものとしてきた透明性や客観性、ユニヴァーサリズムへの批判がなされる。また、写真においては撮影する側とされる側には不均衡な権力関係が避けがたくあることにも目が向けられる。「風景」とは人と人、人と自然との関係によって築かれるものであり、私たちの住まう環境が、人にとっての風景を作るということを、「ドキュメンタリー」や「社会的リアリズム」というカテゴリーにあてはめるのではなく、見てみようとするものだった。この展覧会においては、撮影される側が撮影者のほうに向き合い、撮る撮られる関係を明示したもの、風景を切り取る写真家の恣意的な視線をあらわにした写真などが多く含まれていた。
 「社会的風景」展は、都会に住む者による視点であることから、掛川が写した風景とはまったく違うものが写っている。だが、掛川の写真に頻出する、撮影される側が撮影者のほうにまなざしを向けている写真、自然のなかで生活を営むところをとらえた個人や集団の写真など、掛川はまさに北海道に生きる人々の「社会的風景」を撮影しようとしていたといえるのではないだろうか。そして、北海道における社会的風景ということを考えたときに、それがアイヌを土地から放逐し、開拓によって築き上げられてきたものだということを避けて通ることはできない。掛川がテーマとして選んだ「アイヌ」と「開拓移民」は、ヒューマニズム的な視点によって選択されたというよりは、開拓100年を記念して学生写真連盟が行った1968年「キャンペーン北海道」の宣伝文のなかに掛川が記した言葉にあるように、「今、僕たちが生きている北海道とは何か」ということを問いかけるものとしてあった。
 そうした観点から見直すことによって、掛川の写真は、北海道写真の嚆矢であり、まさに生み出されつつある「北海道」という土地の記録をとらえた田本研造らによる開拓写真にもダイレクトにつながる。とともに、中央の写壇というものから見ると、リアリズム写真運動に影響を受けた地方のアマチュア写真家にすぎないものとして見えていたものが、実は超越的なモダニズム的な視線を批判したポストモダニズム的視点を内包した写真であったというような、中央―地方の支配的な関係に転換を迫る契機をもそこに見いだせるのではないだろうか。
 だが、だからといって、掛川が時代の先端を行っていたなどという短絡的な発言は慎まなくてはいけない。掛川の写真にはプロパガンダ的とも、類型的ともいえる写真も散見されるし、同時代のいろんな要素がアマルガムのように混在している。けれども、自然、風土と共生する人間の営みを、時間をかけて撮り続けることによって、そしてまた、それを必ずしも人間中心的な視点ではなく、自然に対する深い観察眼に基づいた視線によって撮りおさえることによって、彼の写真からは、いかに自分が生きる世界を写真に写すことができるか、という現代にも通じる問いについての具体的な例を読み取ることもできるのではないだろうか。こうしたことを念頭におきながら、掛川源一郎の写真を考える一歩を踏み進めてみることで、改めて見えてくるものもあるにちがいない。
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by curatory | 2014-09-01 14:42 | 時評