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2014年 09月 01日

掛川源一郎と社会的風景(試論)

 掛川源一郎は、北海道ゆかりの写真家や作品に贈られる東川賞特別作家賞を1991年(第7回)に受賞している。そのときに寄贈された作品が、今回の札幌芸術祭の赤れんが庁舎でも一部展示されている。
 掛川源一郎の写真は、バチラー八重子やアイヌの人々を写した写真、沖縄から本土へ、内地から北海道へと移った開拓移民の仲宗根一家を長年にわたって撮影した写真など、北海道の大地に根差し生きる人々に対する共感に満ちたものだ。掛川はヒューマニズムに裏打ちされた「社会派写真家」、「リアリズム写真家」といったくくりで紹介されることが多い。だが、そうしたカテゴリーは写真に写された対象によって写真家を十把一絡げにまとめた乱暴ともいえるもので、あまり多くのことを語ることはできない。
 「社会派写真家」、「リアリズム写真家」ということで、すぐに念頭に浮かぶのは、1950年から54年まで土門拳がアマチュア写真雑誌である『カメラ』の月例投稿写真のコーナーを舞台に提唱した「リアリズム写真運動」だ。土門は「カメラとモチーフの直結」と「絶対非演出の絶対スナップ」をテーゼとし、混乱のなかを生きる日本人の生活を、写真家の主観や演出を排除して客観的に写すことを、アマチュア写真家たちに鼓舞した。土門は、「戦後日本においては、傷痍軍人や、浮浪者といったものが、「敗戦日本の最も典型的な社会的現象」や「存在」であり、「それらをモチーフとすることは絶対に正しいし、またしなければならない。」と言っている。リアリズム写真運動において重要なのは、何を「テーマ」に撮影するかということであり、その「テーマ」を正しく伝えるためには、それをもっともよく表す「典型的な」写真を撮ることが最善の方法とされる側面があった。
 掛川も、1950年代には精力的にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、入選している。そのなかでも特に評価の高かったのが、1954年に「カメラ毎日」で組写真部門一等をとった「神の使徒、アイヌの老姉弟」だろう。その選評においては、牧師姉弟がアイヌ出身者であるという点が、見るものの心をうつ力強いテーマたり得たという指摘を受けている。また、これ以降、掛川は「アイヌ」を「テーマ」として掘り下げ、粘り強い撮影を行っており、掛川の姿勢は「リアリズム写真運動」に通底するものがあったかと思う。
 だが、ここで確認しておきたいのは、掛川が「テーマ性」ということにおいては「リアリズム写真運動」との共通項をもちながらも、それほど「典型」を求めようとはしなかったということだ。掛川の同じ写真を名取洋之助と木村伊兵衛が「アサヒカメラ」で評しているが、そのなかで指摘されたことは、アイヌという感じがでていないということだった。掛川は「アイヌ」をテーマとしながらも、アイヌらしさを写す事よりも、写された人物が、いかにして生活しているかということのほうに重点をおいていた。そして、その生活という観点においては、北海道という土地、風土が圧倒的に重要な意味をもっているということを十分に理解していていたのだろう。それは、掛川が室蘭中学校在学時代から熱中していたという園芸や、植物への関心に負うところも多いにちがいない。あるいはむしろ、植物や自然への興味といったものが、自然とともに生きるアイヌの撮影へと向かわせたと言っていいのかもしれない。掛川は仲宗根家族をはじめて訪れたときの感想として「道路わきや家々のそばに、掘り出された根株が巨大な城砦のように積まれているのに驚き、圧倒された」と記しているが、そうした圧倒的な自然への興味がその後の撮影への原動力となったのではないか。そして、そうであれば、「アイヌ」や「移民」といったテーマから浮かび上がる「典型」ではなく、土地に根差した個別具体的な生活へと彼が関心を向けたのも自然なことだろう。

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掛川源一郎 バチラー八重子『若きウタリに』 (研光社、1964年)より

 掛川の代表作である、晩年のバチラー八重子をとらえた『若きウタリに』(1964)も、まず人が出てくるのではなく、「1.冬の有珠コタン」という章からはじまり、八重子がすんでいる場所、土地の様子の紹介からまずはじめられる。次の章も「2.苺と日曜学校」となり、「苺」という植物を介した八重子の生活の紹介となっている。そして、「3.コタンのくらし」「4.コタンのこども」と続いて「5.アスパラガス」という章がある。この章立ては編集者の意向が強かったようだが、そうであれ、掛川は人だけに焦点をあてるのではなく、自然と人間が、いかに相互に分かちがたく結びついているかということを、写真に撮りおさめていたことがわかるだろう。
 だが、そうかといって、掛川は同時代に支配的な文脈である、典型論からは完全に距離をおいていたというわけではない。掛川の写真は生活に根差したものが基本にあるが、時に戦中のプロパガンダ写真を彷彿させるような、下からあおった形で顔を撮影したもの、あるいは、どこか遠くをまなざして高邁な精神を象徴しているような人物を写した写真がある。こうした写真を見ると、木村伊兵衛が戦時中に満州で撮影し、そこが理想の国であることをプロパガンダ的に表した写真集「王道楽土」に出てくる人々のポートレートを思い出す。こうした写真は、個別具体的な生活というよりは、ある種の典型的な理想像のようなものであり、掛川が表現したいものを、被写体に対してあてはめてしまっている例といえる。「典型」、あるいは普遍性を、写真のなかにとりおさめようとすることは、「リアリズム写真」における大きな誘惑でもあった。
 「リアリズム写真」というのは、日本においては戦後、土門らによって展開された「リアリズム写真運動」をさすものとして主にとらえられがちだが、これはもっと視点を広く転じてみると、1910年頃から欧米で展開された、絵画的な写真(ピクトリアリアリズム)を否定し、カメラという機械の眼を伴った写真独自の表現を目指したモダニズム写真と密接にリンクしたものだ。モダニズム写真は、単純化すれば、モホリ・ナジらの前衛写真や、ありのままの世界を写しだしたといわれるアジェの写真に現れているようなシュルレアリスム的写真にはじまり、その後のウォーカー・エバンスなどのドキュメンタリー写真を経て、カルティエ=ブレッソン、ウィリアム・クライン、ロバート・フランクらに至るような系譜をなしていく。モダニズム写真、特に技巧をこらさずありのままのリアルな世界をとらえようとしたストレートフォトグラフィの流れにおいては、具体的で個別の世界を写しつつも、そこに「普遍的」な風景を描出しようとする。というのも、そうした普遍性を加味することによってはじめて、単なる記録とは違う、写真における「芸術」としての存在意義を主張することができるからだ。
 日本的リアリズム写真が、「テーマ」という内容に重点があったのに対し、モダニズム写真は、テーマだけではなく、その「形式」も問われることになる。たとえばカルティエ=ブレッソンに代表されるようなモダニスト・フォトジャーナリズムと分類される写真においては、演出されたのではない、「ありのままの人生」を写真にとらえたことを示すために、相手が無意識のうちに、自然な形で撮影したということを強調する必要があった。そのため、写真のなかの人物がカメラを見つめているようなことはほとんどない。また、カルティエ=ブレッソンの場合は、幾何学的な構図を写真のなかにあてはめることによって、「テーマ」や「人生」とは切れたところで、一枚の写真としてそれが自立的に完成することを求めた。
 日本においても、たとえば掛川よりも15歳ほど年下で、掛川と同じ1950年代にカメラ雑誌の月例投稿に投稿を繰り返し、早くから脚光を浴びていた青森の写真家、小島一郎(1929-64年、2010年第一回東川賞飛騨野数右衛門賞)も、このモダニズムの洗礼を受けていたといえるだろう。小島の写真の特徴は、青森の厳しい自然のなかに暮らす人々の生活や、風景、生活に根差したモノをとらえながらも、それを卓越した造形感覚と独自の暗室操作によって、モダンな造形性と両立させたことだった。小島はそれを「構図」という点だけではなく、「極度にきりつめたトーンの効果や粒子のアレ」(渡辺勉評)を用いることによって、ローカル・カラーだけではなく、象徴性や普遍性まで含みこんだ作品に仕上げていく。
 こうしたモダニズム的な写真家と比べたとき、掛川の写真は、「形式」という点においては、あまり目立った特徴はないように思える。撮りたい対象を中心にもってくることが多く、非常にオーソドックスともいえる形で、対象にストレートに迫った写真に見える。たとえば、掛川と同じように、失われつつある民族、風習をとらえ、一世を風靡した濱谷浩が写した『雪国』(1956年)や『裏日本』(1957年)と比べてみても、そうした違いはうかがえる。濱谷の有名な「田植女」の写真では、造形的な要素を強調するために、被写体の顔が画面外に出されている。掛川の写真にはそうした造形的な処理はほとんど見受けられない。掛川の写真の被写体は、基本的にバチラー八重子、仲宗根一家、山本多助エカシといった風に、名前をもった個人として写されている。
 写真におけるモダニズム的なありかたは、1960年代後半以降、次第に批判にさらされることになるが、その転機となるのが1966年にネイサン・ライオンズがキューレーションし、ジョージ・イーストマン・ハウスで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」だった。そこでは風景の写真的表象は透明ものではありえず、社会的に形成されたものであり、写真的モダニズムが自明のものとしてきた透明性や客観性、ユニヴァーサリズムへの批判がなされる。また、写真においては撮影する側とされる側には不均衡な権力関係が避けがたくあることにも目が向けられる。「風景」とは人と人、人と自然との関係によって築かれるものであり、私たちの住まう環境が、人にとっての風景を作るということを、「ドキュメンタリー」や「社会的リアリズム」というカテゴリーにあてはめるのではなく、見てみようとするものだった。この展覧会においては、撮影される側が撮影者のほうに向き合い、撮る撮られる関係を明示したもの、風景を切り取る写真家の恣意的な視線をあらわにした写真などが多く含まれていた。
 「社会的風景」展は、都会に住む者による視点であることから、掛川が写した風景とはまったく違うものが写っている。だが、掛川の写真に頻出する、撮影される側が撮影者のほうにまなざしを向けている写真、自然のなかで生活を営むところをとらえた個人や集団の写真など、掛川はまさに北海道に生きる人々の「社会的風景」を撮影しようとしていたといえるのではないだろうか。そして、北海道における社会的風景ということを考えたときに、それがアイヌを土地から放逐し、開拓によって築き上げられてきたものだということを避けて通ることはできない。掛川がテーマとして選んだ「アイヌ」と「開拓移民」は、ヒューマニズム的な視点によって選択されたというよりは、開拓100年を記念して学生写真連盟が行った1968年「キャンペーン北海道」の宣伝文のなかに掛川が記した言葉にあるように、「今、僕たちが生きている北海道とは何か」ということを問いかけるものとしてあった。
 そうした観点から見直すことによって、掛川の写真は、北海道写真の嚆矢であり、まさに生み出されつつある「北海道」という土地の記録をとらえた田本研造らによる開拓写真にもダイレクトにつながる。とともに、中央の写壇というものから見ると、リアリズム写真運動に影響を受けた地方のアマチュア写真家にすぎないものとして見えていたものが、実は超越的なモダニズム的な視線を批判したポストモダニズム的視点を内包した写真であったというような、中央―地方の支配的な関係に転換を迫る契機をもそこに見いだせるのではないだろうか。
 だが、だからといって、掛川が時代の先端を行っていたなどという短絡的な発言は慎まなくてはいけない。掛川の写真にはプロパガンダ的とも、類型的ともいえる写真も散見されるし、同時代のいろんな要素がアマルガムのように混在している。けれども、自然、風土と共生する人間の営みを、時間をかけて撮り続けることによって、そしてまた、それを必ずしも人間中心的な視点ではなく、自然に対する深い観察眼に基づいた視線によって撮りおさえることによって、彼の写真からは、いかに自分が生きる世界を写真に写すことができるか、という現代にも通じる問いについての具体的な例を読み取ることもできるのではないだろうか。こうしたことを念頭におきながら、掛川源一郎の写真を考える一歩を踏み進めてみることで、改めて見えてくるものもあるにちがいない。

by curatory | 2014-09-01 14:42 | 時評


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