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2018年 07月 11日

バンクーバーの現代写真: フォトコンセプチュアリズム、ポストコンセプチュアルフォトとその後 Contemporary photography in Vancouver



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たくさんのボートが停泊するフォールス・クリークから見たバンクーバー中心街


今年の東川賞海外作家賞対象国はカナダだ。カナダは1994年の第10回目で対象国になっているが、このところ北米が対象となっていなかったこともあり、(といっても、北米の対象となるのはカナダとアメリカ合衆国だけで、アメリカはすでに4回対象国となっている。)再度対象国となった。前回の授賞者はモントリオールで活躍するミッシェル・カンポウ。今年の受賞者であるマリアン・ぺナー・バンクロフトはバンクーバー出身だ。

カナダは多文化社会で、トロント、オタワ、モントリオール、ケベック、ハリファックス、ウィニペグ、バンクーバー等を中心としながら、それぞれの地方で独自の文化圏を作っている。たとえばフランス語圏であるモントリオールでは主観的で抒情的な傾向の写真が強く、バンクーバーでは理知的な傾向があるといわれている。特にバンクーバーはフォトコンセプチュアリズムのメッカとして、国際的にも評価が高く、ジェフ・ウォールらを中心とする、フォトコンセプチュアリズムあるいは、ポストコンセプチュアルフォトの「バンクーバー・スクール」という言葉をいろいろなところで耳にする。

だが、フォトコンセプチュアリズムは1960年代後半から1970年代はじめ頃まで盛んだった、コンセプチュアル・アートの文脈で写真を用いた作品で注目された活動に対する呼称とされているし、バンクーバー・スクールは主に1970年代後半か80年代以降にバンクーバーで活躍した、ジェフ・ウォールやイアン・ウォレスとその流れをくむ写真家たちを指すものとされている。

どうして時期がずれる内容の二つがバンクーバー・スクールを形容するものとして使われるのか? バンクーバー・スクールはどういったグループなのか? 昨年11月にバンクーバーにリサーチに訪れた際には、こうした問いがずっと頭を巡っていた。短期間のリサーチで確たることは言える立場にはないのだが、そこで得た知見や資料にあたりながら、フォトコンセプチュアリズム、ポストコンセプチュアルフォト、バンクーバー・スクールはどのように重なりあい、現代のバンクーバーのアート写真の現場はどのような状況にあるかについてのイントロダクションを試みる。

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UBC人類博物館
先住民から簒奪したと思われる由来も定かでない収蔵品について、ポストコロニアリズムの視点から、
近代が生み出した博物館システムについて自己批判するキャプションがつけられていたのが印象的だった。



写真を用いたコンセプチュアル・アート 

1950年代までのバンク―バーは、西は太平洋、東はロッキー山脈に隔たれ、首都トロントやニューヨークからはるかに離れた「世界の果て」とまで言われた土地だった。地元の美術界で評価されているのは、ファーストネーションが住まう原初的な森を、ロマンティックで表現主義的に描いたエミリー・カー(1871-1945)といった、モダニズムの伝統を引く画家たち。ヨーロッパでモダニズムと後期印象派の洗礼を受け、1910年代にカナダに戻ったカーも、当初は異端として理解されなかったが、52年にはベニス・ビエンナーレに展示される代表の一人となり、国民的なアーティストとして一つの規範となっていた。だが、ニューヨークを中心としたモダンアートの文脈においては、バンクーバーは注目に値しない地方都市の一つにすぎなかった。

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バンクーバー・アート・ギャラリーでエミリー・カーの作品を前に授業を受ける子どもたち


ところが、それに大きな変化が訪れるのが1960年代後半だ。当時のモダンアート界では、グリーンバーグが唱えたメディウムとしての物質的な特性ではなく、作品の概念的な特性や思想性を重視する潮流が生まれていた。それはソル・ルウィットのエッセイ「コンセプチュアル・アートに関する断章」(1967)によって、コンセプチュアル・アートとして広く知られるようになる。コンセプチュアル・アートは、絵画の純粋性を追求し、フォーマリズムとして制度化された芸術の地位を否定するために、一般に流通している写真の情報伝達、エディトリアル、アーカイブ的な機能に注目し、作品に積極的に取り込んだ。同時代に展開したポップ・アートの文脈においても、複製技術、マスメディアとしての写真は、その通俗性、日常性により、大量消費社会の大衆文化のアイコンとしてクローズアップされている。モダニズムの超克をもくろむアートにおいて、写真は極めて有効な手段として用いられた。 

そして、1960年代半ば頃から70年くらいまでの、写真を重要な要素として利用したコンセプチュアル・アートの試みがフォトコンセプチュアリズムと呼ばれるようになる。その代表的な作品が、エドワード・ルシェ《TwentySix Gasoline Stations(26のガソリンスタンド)》(1963)や、ダン・グラハム《Homes of America(アメリカの家)》(1966-67)だ。 

ルシェは街道を現代社会におけるひとつのシステムとみなし、そこに存在する26か所のガソリンスタンドを、デッドパン(無表情)でミニマル、客観的なスタイルで写真に撮り、本の形で提示した。それはガソリンスタンドという、日常のありきたりなモニュメントに対するオマージュでもあり、確立された美に対する批判の現れでもあった。疎外された郊外を移動しながら撮影するという手法は特に、モダニズム芸術写真の代表格ともいえるロバート・フランクの『The Americans』(1958年)でとられた手法でもあり、当時のはやりにもなっていた。ルシェの作品はそうした郊外を美的でドラマチックに撮り収める作家主義的クリシェに対する批判性も有していたとされる。 

グラハムの《Homes of America(アメリカの家)》は、フォトジャーナリズムで多用されたフォト・エッセイのフォーマットを用い、日常性を湛えたカラー写真による不動産の広告のような写真群をテクストとともに提示したもの。この試みは、美術批評家のベンジャミン・ブクローによって、テクストを用いることで伝統的な芸術空間の破棄を試み、ミニマリズムの限界を提示した批判的な作品として解釈されたが、グラハム自身は郊外というアルカディアに捧げる詩のようなものだったと言っている。いずれにせよ、それまであまり注目されることのなかった郊外のありきたりな家の外観(ウォーカー・エバンス的に内部のディティールを写すのではなく)を広告写真的に撮影し、ルポルタージュ的に提示する彼の手法は挑発的で、大衆消費社会におけるアートの可能性を写真とテクストを用いて問うものであった。


バンクーバーのフォトコンセプチュアリズム 

こうした「中央」のアート界に出現したコンセプチュアル・アートの潮流と並行するようにして、周縁の地バンクーバーでも、イエインとイングリット・バクスターによるアート・コレクティブN.E. Thing Co.(1966-78)が、写真を用いたコンセプチュアル・アートを制作していた。「メディアはメッセージである」というアフォリズムを唱えたマーシャル・マクルーハンの思想に影響を受けたN.E. Thing Co.は、アートや社会における形式、フレームに着目し、会社組織での作品の発表を試みている。《A Portfolio of Piles》(1968)では、工場などが立ち並ぶ郊外で見つけた59個の積み上げられたモノ(木材、石、スープボール、鎖など)の写真をバンク―バーのポートレイトとしてタイポロジー的に提示。バンク―バーにおけるフォトコンセプチュアリズムの最初期の試みとされている。 

バンクーバーにおけるこうした試みは、N.E. Thing Co.だけが例外的に行っていたものはなかった。当時ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の学生だったクリストス・ディキアコスは、現代美術の新たな動向に早々に着目し、展覧会「Photoshow(New Attitudes in Photography)」(1969-70)を学内のギャラリーで企画。この展覧会には、ダグラス・ヒューブラー、ブルース・ナウマン、ダン・グラハム、エド・ルシェといった写真を用いた国際的なコンセプチュアル・アーティストのほか、イエイン・バクスター、イアン・ウォレス、ジェフ・ウォール、ディキアコスといった、バンク―バーの同世代のアーティストたちが参加した。これはフォトコンセプチュアリズムの作品を包括的に展示したバンク―バーにおける最初の試みであっただけでなく、世界においても最初期の試みの一つである。 

次いで、バンクーバー・アート・ギャラリーで、「芸術作品の非物質化」としてコンセプチュアル・アートを定義、牽引した批評家ルーシー・リッパードが企画した展覧会「955,000」(1970)が開催される。(タイトルはバンクーバーの人口にちなんだもので、展覧会のオフサイトイベントとして、ロバート・スミッソンの「Glue Pour」(1970)のパフォーマンスが、リッパードの立ち合いのもとUBCで行われ、ディキアコスがパフォーマンスのドキュメントを写真で残している。)これもシアトルに続き、北アメリカでコンセプチュアル・アートを包括的に提示した展覧会の最初期のものであった。この展覧会にも、ヴィト・アコンチ、メル・ボックナー、ダン・グラハム、河原温、ジョゼフ・コスス、ブルース・ナウマンといったアメリカで活躍する作家のほか、N.E. Thing Co.、ディキアコス、ジェフ・ウォールといった地元の作家が参加していた。 

同年に、ニューヨーク近代美術館でも、最新の美術の動向であるコンセプチュアル・アートを紹介した展覧会「Information」(1970)がキーナストン・マクシャインの企画で開催され、先の展覧会にも出ていたアーティストのほか、ハンス・ハーケ、ダニエル・ビュレン、ベッヒャー夫妻、ビクター・バーギンなど、アメリカ、ヨーロッパなどから100名ほどのアーティストが出品した。バンクーバーからはN.E. Thing Co.のほか、ジェフ・ウォールが参加している。この展覧会では、1960年代後半からの美術が、メディウムとしての物質的条件を逃れることによって流動化し、写真、ビデオ、印刷物、ファックス、郵便などのコミュニケーション・システムを有効に用いることによって、国際化、情報化しつつある動向が示されていた。 

だが、この展覧会はコンセプチュアル・アートの早すぎる回顧展とも評され、その勢いは70年代に入ってから急速に衰えていく。コンセプチュアル・アートはモダニズムを乗り越えることを目指していたものの、美的で抽象的でミニマリスティックな方法を主としたモダニズムの流れを引いたアバンギャルド美術の域を超えることはできず、情報化社会によって急速に多様化する現実に対応しきれるものではなくなっていた。代わりにテクストを有効に介在させることで、リベラルポリティックス、マスメディア、フェミニズム、環境主義など、現実の政治や経済にも目を向けた様々な方向にアートは拡散する。その結果、コンセプチュアル・アートを基盤としたフォトコンセプチュアリズムも、70年代中盤には終焉を迎えたとされる。 

こうして、短期間に終わった活動ではあったが、バンクーバーで活躍するアーティストたちにとっては、一線で活躍する国際的なアーティストや批評家たちと交流する機会となり、世界的にもその存在が認知されるきっかけとなった。


郊外都市バンクーバーと国際化

では、なぜそれまでは一地方都市にすぎなかったバンクーバーのアーティストたちは、このフォトコンセプチュアリズムにおいては、世界的にも最先端の試みとして評価されるような作品を生み出すことができたのだろうか?

「Information」展でも見られたように、60年代後半からのコンセプチュアル・アートに代表される美術の新しい動向は、従来の物質的条件から解放され、写真、印刷物、テクストなど「情報」を主としたコンパクトな形態をとっている。そこでは「複製」と「本物」の違いは些少なものとなり、オーセンティックなアートにアクセスしづらい地方のアーティストも最新のアートに触れると同様、発信もすることができた。つまり、どんな地方に住むアーティストでも、認知される機会があれば、国際展にも容易に参加できることを意味していた。1960年代までは隔離された一地方で、国際的な動向よりも地域の主観主義的、ロマンティック美術の伝統に根差したアート・コミュニティを築くしかなかったバンクーバーが、1960年代後半から突如世界の表舞台に立つようになったのは、非物質的またはミニマルな形態を志向するコンセプチュアル・アートというフォーマットが大きな役割を果たしている。

しかし、バンクーバーにおいてコンセプチュアル・アートはメインストリームにはなりえず、一部の知的関心のある仲間内に広まったにすぎなかった。だが、それゆえに市場原理とも関係のない、理論的探求心にもとづいたピュアな活動として、NYのアーティストたちとも比肩するレベルの活動になりえたといえる。では、そうした活動が一体どうやって同時代のNYのアーティストや批評家に知られることになったのだろうか?

その要因の一つには、バンクーバーで活躍していたアーティストが1960年代頃からよく海外に出かけ、同時代のアメリカ、ヨーロッパで行われていた活動に敏感に反応していたということがある。また、1955年にブリティッシュコロンビア大学(UBC)に創設された美術科の主任教官であったB.C.ビニングを中心に、1961年から71年までの毎年、国際アートフェスティバルが開催され、美術家、音楽家、詩人、ダンサーといった様々な分野で活動する知識人が、NYやサンフランシスコなどから招聘されたことが挙げられる。バンクーバーのアーティストに大きな影響を与えたマーシャル・マクルーハンや、バックミンスター・フラーもこのイベントに参加している。こうした機会を利用して、バンクーバーのアーティストは一線で活躍する知識人らと活発な議論を行い、最新の情報を取り入れ、作品を見せ、様々なフィードバックを得ることによって、思考や作品を深めていったのだろう。

ディキアコスが展覧会を企画したように、UBCにはアートギャラリーも併設されており、1960年代はUBCを中心に、様々なアート活動が繰り広げられることになった。N.E. Thing Co.の一人であるイエイン・バクスターもこのUBCで教え、後進のアーティストたちを育てている。ジェフ・ウォールと並び、バンクーバー・スクールを語る上で外すことのできないイアン・ウォレスもUBCでバクスターとビニングに学び、美術史の修士学生として学ぶ傍ら、67年には同大学で教えはじめ、数歳しか違わないジェフ・ウォールやロドニー・グラハムらを指導する立場にあった。彼らは互いに刺激しあいながら、研鑽を深め、写真というメディアの可能性を模索する。

特に、バクスターの《A Portfolio of Piles》(1968)は、バンクーバーの若手アーティストたちに一つの指針をもたらしたといえるだろう。「Information」展に出品されたジェフ・ウォールの《Landscape Manual》(1969)は、バクスターと同じくバンクーバーの郊外に出かけて撮影したもので、バクスターや、ダン・グラハム、エド・ルシェといったコンセプチュアリストが採用した、ミニマリストのタイポロジー的な美学を模倣している。写真をまとめたブックレットの表紙には25セントという安価な値段が印刷され、消費社会における複製技術としての写真の役割を強調し、その美的な価値を否定するものであった。だが、バクスターと違ってそれらをすべて車の窓から写すことによって、旅行写真の手法や、シネマ的な要素も融合させて形で提示しており、ミニマリズムには収まらない方法をすでに模索しているといえる。

この時期、ウォールのほかにも、ディキアコスやウォレスも同様に車の窓からバンクーバーの郊外をスキャンするように撮影した作品を制作している。ウォレスはそれらを時間と場所の移動を示す連続的な写真で提示し、「literature of the image(イメージの文学)」と呼んだ。郊外はレディメイドの日常のモノ(家や工業製品や廃棄物など)が至るところにあり、それらをアイロニックな形で収集するにはまたとない場所だった。

フィルム作家で批評家のデニス・ウィーラーはディキアコスが企画したUBCの展覧会レビューで彼らの写真を「defeatured landscape」(特徴のない風景、顔のない風景、打ち捨てられた風景とでも訳せるか?)と評し、以降もこの言葉はバンクーバーで活躍するアーティストたちに共通する一つのテーマとして、ウォレスなども好んで用いる支配的な言説となっていった。そこには、それまでのモダニズム絵画の伝統にあった、自然主義的でロマンティックな大自然としての表象へのアンチテーゼとしての意味もあった。(だが、その一方で、そのカテゴリー以外の写真をバンクーバー的な写真とは認めないという排他性や、様々な歴史や社会の層を反映しているはずのバンクーバーの郊外の光景を、何もない土地としてまなざす視線にはコロニアリズム的な要素もあると、近年では批判もされている。)

ウォレスはバンクーバーがフォトコンセプチュアリズムを代表するような場所になったのは、この時代のモダニズムにとっての主要なテーマがメディウムだけの問題ではなく、リージョナリズムも大きな意味をもっていたからだと指摘している。バンクーバーはモータリゼーションの進展により、1950年代から60年代に大規模な開発が行われ、ビルや工場が建ち並ぶ街に変貌しはじめていた。60年代半ばには人口も100万人に近づき、都市部における計画的な市街地整備とジェントリフィケーション、及び低密度の郊外住宅の増加が顕著になる。60年代末には、機能性だけを重視し、市の中心部に高速道路を通す計画への反対運動も巻き起こっている。

バクスターの《A Portfolio of Piles》の試みが、バンクーバーのポートレイトを意図したものであったように、他のアーティストたちも、急激に変貌する郊外や町の様子を、写真というメディアを使って記録することへの関心は少なからずあっただろう。その形式として採用されたのが、ニューヨーク近代美術館のジョン・シャカフスキーによって確立されたモダニズムの芸術写真としてのフォーマットではなく、当時の最先端にあったコンセプチュアル・アートのスタイルだった。だが、郊外や風景といった現実を写した写真においては、その記録、描写するという機能は常に意味の複数性を内包し、ミニマルで単一な「コンセプト」とは基本的には相いれない。そこにフォトコンセプチュアリズムの限界があったといえるだろう。


フォトコンセプチュアリズムのその後とバンクーバー・スクール

ウォールは1995年に記した「「取るに足らないものの印」-コンセプチュアル・アートにおける/としての写真の諸相」のなかで、1960年代のフォトコンセプチュアリズムを振り返り、それをフォトジャーナリズムとアマチュアリズムの模倣、パロディとして論じている。そして、それがラディカルな還元主義の方法論として、「コンセプチュアル・アートの帰途の核心部にある還元主義の知的任務を達成することができた」とする一方で、写真は「描写」するという機能をもつため、純粋な(言葉による)コンセプチュアリズムたりえなかったという。

彼は、フォトコンセプチュアリズムの限界について、論の結びでこう記している。

「それゆえ写真は、経験がどのようなものかを示すことによって、その被写体を示す。写真は「経験の経験」を与えるのであり、このことを描写の意義として定義づけるのである。この観点から言えば、コンセプチュアル・アートに背を向け、還元主義とその攻撃に背を向けることは、写真の役割であり課題であったと言えるだろう。だとすれば、フォトコンセプチュアリズムは、芸術としての写真の前史における最後の瞬間であり、旧体制の終焉であった。それはまた、このメディウムを芸術的ラディカリズムとの独特の隔たった関係から解放し、その<西洋的画像>の結びつきからも解放しようとするもっとも持続的で、洗練された試みでもあった。その解放を行うことの失敗において、フォトコンセプチュアリズムは<画像>についての我々の概念を変革し、コンテンポラリー・アートの中心的なカテゴリーとして、その概念が1974年頃までに回復するための諸条件を作りだしたのである。」
(ジェフ・ウォール「「取るに足らないものの印」-コンセプチュアル・アートにおける/としての写真の諸相」(甲斐義明編訳『写真の論理』月曜社、2017年、p141-142)

ウォールはコンセプチュアル・アートやモダニズムの前衛主義に対する不満から、フォトコンセプチュアリズムに見切りをつけ、1970年より作品の制作を中止。同年にロンドンに移ったウォレスの後を追うようにして渡英し、73年までロンドン大学のコートールド美術研究所のT・J・クラークの下で学ぶ。そして、カナダに帰国後は制作の傍ら大学で美術史を教え、78年にドラクロワの影響を受けて制作したライトボックスを用いた最初の大型作品《The Distroyed Room》(1978)で脚光を浴びる。(ライトボックスを用いて作品を作ったのはウォールがはじめてではなく、1967-68年頃にN.E. Thing Co.が用いて作品を制作しているようだ。)以降、ウォールにとっては19世紀に至るまでの西洋の具象絵画の伝統を、どのようにして写真というメディウムを用いて引き継いでいくかが新たな関心となる。ウォールはこの具象絵画の伝統との連続性を強調するため、自身の作品を「写真」ではなく、「画像(ピクチャー)」と呼ぶことを好むようになった。

ウォールの解釈では、フォトコンセプチュアリズムは1970年代半ばには終焉した。よって、以降の彼の活動に代表されるバンクーバーのアーティストたちの作品は、ポストコンセプチュアルフォトと呼ばれるにふさわしいだろう。

だがウォールより一足先にイギリスからバンクーバーに帰って来たウォレスは、ウォールのようにフォトコンセプチュアリズムが1970年頃に終息したとは考えていないようだ。ウォレスはバンクーバーにおけるフォトコンセプチュアル・アートを3つのステージにわけている。

1)1960年代中頃から末にかけての、コンセプチュアル・アートで写真が利用された時期 
2)1970年代の、パフォーマティブで理論的、記号論的作品における、ナラティブでシネマティックな戦略が多様に発展した時期
3)1980年代以降の、レディメイドや「流用」のテクニックを用いて、マスメディア像を批判的、脱構築的に援用した時期。

ウォレスはこれらのフォトコンセプチュアル・アートの流れを、時にフォトコンセプチュアリズムという言葉に総称させ、それが60年代後半から70年代前半の限られた時代の特定のアーティスト一群による試みであったのではなく、N.E. Thing Co.やウォレスを起点とした、次世代、次々世代の写真家たちを含むバンクーバーに特有の活動として位置づけようとする。

ウォレスは帰国後、1972年からヴァンクーバー・スクール・オブ・アート(後のエミリーカー美術大学)で教えはじめ、1970年代後半から80年代半ばまで、「アートナウ」というビジティング・アーティスト・プログラムを組み、ダニエル・ビュレン、ダン・グラハム、バーバラ・クルーガーといったアーティストを大学に呼んでいる。こうした流れにのって、フォトコンセプチュアリズムが終息したとされる1970年代後半からも、バンクーバーにはたくさんのアメリカのアーティスト(ジョセフ・コスス、マーサ・ロスラー、アラン・セクーラら)や、批評家(ベンジャミン・ブクローら)が継続的に訪れていた。

「アートナウ」の授業には、ロイ・アーデン、スタン・ダグラスといったバンクーバーの次世代を担うアーティストも参加している。ウォレスはこうした教え子たちの活動を60年代後半から連綿と続く、フォトコンセプチュアリズムに端を発した「バンクーバー・スクール」の一環として位置づけることで、海外からの注目を彼らにも注がせようとする教育者としての配慮とともに、その原点に自分たちの世代の活動を据えることで、その革新性と正統性が確保されるという利点もあったに違いない。

1980年代以降はバンクーバーにおいても現代美術への理解は高まったとはいえ、マーケットはアメリカに頼らざるを得ない。この頃からウォレス、ウォール、ロドニー・グラハム、ケン・ラムといったバンクーバーのアーティストはNYでの展覧会などに呼ばれることも増えるが、グローバリゼーションの波に飲み込まれるアート界で生き残るためには、「バンクーバー・スクール」というブランド化は有効な差異化の役目を果たしただろう。(余談になるが、フィンランドの「ヘルシンキ・スクール」についても、アールト大学の学生たちをまとめ、海外に売り込むための戦略としてのブランド化の側面が強いが、バンクーバー・スクールにも同様の傾向があったように思われる。)

しかし、特にウォールに対するマイケル・フリードや他の批評家たちによる評価や彼の名声と相まって、バンクーバー・スクールは確たる実体もないままに、その名前だけが一人歩きをしはじめる。その結果、バンクーバーといえばコンセプチュアル・フォト(あるいはポストコンセプチュアルフォト)のバンクーバー・スクールという言説だけが突出することとなり、それ以外の活動にはなかなか眼が向けられないという状況が生まれる。それに対する反発から、近年ではバンクーバー・スクールという言葉はあまり使われなくなっている傾向があるのかもしれない。

たとえば、首都オタワにあるカナダ写真インスティテュート(この前身であるカナダ国立映画制作庁(NFB)は、イギリスでドキュメンタリー映画運動をおこしたジョン・グリアソンによって1939年に設立されたもの。1985年にカナダ国立美術館付属でカナダ現代写真美術館となり、2015年にはカナダ写真インスティテュートとして改編された。)では、2017年に「カナダの写真 1960-2000」という展覧会が開催されている。この展覧会は、この40年間に活躍した71人の写真家を紹介したもので、このなかにはジェフ・ウォール、イアン・ウォレス、ロドニー・グラハム、ロイ・アーデンといったバンクーバー・スクールに属するとされる写真家も含まれている。だが、カタログの解説文のなかではコンセプチュアル・フォトについては触れられていても、バンクーバー・スクールへの言及は見当たらず、ウォレスやアーデンは、個性的な一軒家の写真をタイポロジカルに撮影したジム・ブロイケルマンらと同じく、移り行くバンクーバーのシティスケープを撮影した写真家として説明される。

また、バンクーバー・アート・ギャラリーでも同年に、1950年代末から今日までの写真とビデオを用いたアーティストを集めた展覧会「Pictures From Here」が開催されている。展覧会を観ることは叶わなかったが、企画者のグラント・アーノルド氏に話をうかがったところ、ここでも「フォトコンセプチュアリズム」や「バンクーバー・スクール」といったテーマはあえて設けず、国際的に注目をあびてきた、ライトボックス、タブロー、大型写真だけに限定されない、バンクーバーにおけるピクチャーメイキングの豊かな試みを紹介することに重点がおかれていたようだ。ほとんどが写真からなる展覧会のタイトルに「画像(ピクチャー)」という言葉を使っているのも、「写真」を芸術写真の狭い文脈にとじこめるのではなく、フォトコンセプチュアリズムやポストコンセプチュアルフォトなどの文脈も踏まえた上での、ビデオも含めた現実を表象した「画像」のあり方を問おうとする意図がくみ取れる。

様々なポリティクスが関与し、批判もされているバンクーバー・スクールという言葉はあえて用いず、相対的な観点から様々な写真の実践を見ようとするのが、近年の動向のように推察される。


バンクーバー写真の多様性

こうした背景をもつバンクーバーの写真の現況はどういうものか? 

以下では、バンクーバー・スクールとして紹介されることの多い、ジェフ・ウォールイアン・ウォレスクリストス・ディキアコスロドニー・グラハムロイ・アーデンスタン・ダグラスといった作家以外の、バンクーバーで活躍する作家の活動を簡単に紹介していきたい。(本当はバンクーバー・スクールでまとめて見るべきではないが、今回はひとまずそれ以外の作家に重点をおいておく。)

ここ10数年で評価が高まったのが、2007年にバンクーバー・アート・ギャラリーで初の回顧展が開かれたフレッド・ヘルツォーク(Fred Herzog)だろう。1930年にドイツで生まれたヘルツォークは52年にカナダに移り、病院で写真技師として働く傍ら、ビルボードのあふれる街並や車、行き交う人々といったバンクーバーのシティスケープを、コダクロームのリバーサルフィルム独特の鮮やかさでとらえていった。50年代、60年代は、いわゆる芸術写真はモノクロでとられることが多く、カラー写真は広告などでの使用が主であったために、なかなか芸術とは認められなかったが、ヘルツォークはカラースライドフィルムにこだわり続け、「ニュー・カラー」の先駆けともいえる活動をしていた。湿り気を帯びた鮮やかな色調でとらえられた古き良きバンクーバーの街の景色はノスタルジーを喚起するとともに、バンクーバーにおけるモダニズム・カラー写真の最初期の実践として評価されている。

古き良きバンクーバーが次第に姿を消し、都市化が急速に進んでいく、その後の70年代のバンクーバーを写し留めたのがグレッグ・ジラード(Greg Girardだ。ジラードの《Under Vancouver》(1972-1982)は、開発により大きく変容しはじめる1970年代のバンクーバーの、取り残され、見過ごされがちな街の暗部を、モノクロまたは夜の人工光の明かりをもとにカラーで撮影した写真だ。10代後半の多感な時期にとりはじめられたこのシリーズには、不安と欲望に満ちたバンクーバーの姿がとらえられている。だが、86年に開催される万博に向けて、バンクーバーは地方の港湾都市から自然に満ちた理想的な文化都市へと変容していく。ジラードはバンクーバーに代わるディストピアを探すべく、その後は数十年にわたり、香港、上海、九龍、ハノイ、沖縄といったアジアの都市に拠点を移し、その社会的、物理的な変容を、深い闇に注がれた光のなかでとらえている。ジラードは日本にも一時滞在しており、1970年代から80年代の東京をとらえたシリーズや、基地の街・沖縄に焦点をあてた写真集『Hotel Okinawa』(2017)などがある。

ウォレスやウォールと同世代で、当初はモノクロのドキュメンタリースタイルの写真からはじまるが、次第にテクストを用いたり、彫刻的なインスタレーションを行ったりコンセプチュアルな方向も取り入れていくのが、今回の東川賞受賞者となったマリアン・ぺナー・バンクロフト(Marian Penner Bancroftだ。義理の弟デニス・ウィーラー(ランドアートの先駆者であるロバート・スミッソンとも親しく交わり、フィルム制作や批評を通してバンクーバーのアートシーンを牽引していた)が白血病で亡くなる過程をパーソナルドキュメンタリーのタッチでとらえた写真シリーズ《For Dennis and Susan: Running Arms to a Civil War》(1977)で注目を浴びたバンクロフトは、その後も、家族や身近な事物にまつわる自伝的、個人的記憶をもとに、作品を紡ぎだすスタイルを貫いている。ファーストネーションを除くほぼすべての国民が、別の国から移住してきた歴史をもつカナダにおいて、バンクロフトも例外ではなく、祖父母はウクライナとスコットランドからの移民だという。さらに、祖父は同化政策の一環として、ファーストネーションの子どもを家族や共同体から引き離して西洋的な教育を施す寄宿学校の運営にもかかわっていた。バンクロフトは、西洋文化を伝える幼少期に読んだ絵本や、母の役割やジェンダーについての作品、失われた水脈を可視化する作品によって、カナダにおけるヨーロッパからの移民による社会の歴史がいかに発展してきたかを探るとともに、その発展と引き換えに奪われていったファーストネーションにとっての聖地、テリトリーの意味を問いかける。身近に生育する外来種の植物をクローズアップで撮影した近作《radial systems》も、広い意味における「移住」をテーマにした作品だ。

同じく移民の問題に取り組むのが、韓国で生まれ、8歳のときにカナダに移住したジン・ミー・ユーン(Jin-me Yoonだ。ユーンは、アイデンティティの問題を、文化、民族、歴史、ジェンダー、ネイションなどの観点から問うた作品を、写真、ビデオなどを用いて制作している。《Souvenirs of the Self》(1991)は観光地アルバータへの団体ツアー旅行に参加し、記念写真的に自身のポートレイトを撮影することで、ツーリズムの文脈で形作られてきたカナダの典型的で広大な「風景」のなかで、自と他の関係を問うた作品だ。集団のなかでの違和感や、無意識、記憶がアイデンティティにいかに作用するかをテーマに作品を作っている。

バンクーバー・スクールにも当てはまるとされるが、男性優位のモダニズムの歴史のなかでは、女性アーティストはいつもマージナルな存在として見過ごされがちだ。絵画、写真、彫刻といったジャンルに入る作家であればまだしも、インターメディアなアーティストとなるとさらに滑り落ちる確率は高くなる。そうした存在に焦点をあてたのが、自身もクラッシックの歌手、即興音楽家としてのキャリアの一方、写真家、ビジュアル・アーティストとして活躍するキャロル・ソイヤー(Carol Sawyerの「Natalie Brettschneider」シリーズだ。ソイヤーは1920年代~30年代にかけてヨーロッパで活躍していたダダやシュルレアリスムの女性アーティストのリサーチを行うなかで、資料のほとんどが男性作家のミューズや被写体としてのものであり、彼女ら自身のアーカイブはほとんど残っていないことを目の当たりにする。それから20年ほどにわたり、ヨーロッパだけでなく、カナダの、特に複数のメディアにまたがる活動を行う女性アーティストについてのリサーチを続け、そのアーカイブや資料をもとに、Natalie Brettschneiderという架空の女性パフォーマンス・アーティストを創作する。そして、自ら演じた写真作品や映像を展示した展覧会を昨年バンクーバー・アート・ギャラリーで開催した。歴史というものが、誰によって、どのように作られてきたかということを、アイロニカルでユーモアにあふれた手つきで提示した作品だ。

UBCでウォール、ウォレス、アーデン、ダグラスらに学んだシルヴィア・グレイス・ボルダ(Sylvia Grace Bordaは、ポストコンセプチュアルフォトの新しいあり方を、カメラやモダニズムの原理にまで立ち返り、追求する作品シリーズを展開している。コミュニティを巻き込みながら、食べられるフォトグラム・クッキーを制作販売するなど、ユーモアとウィットにとんだ作風は、シリアスで孤高の作家というモダニズム的な作家像への批判性ももっている。「Every Bus Stop in Surrey, BC」(2004-05)は、ルシェのガソリンスタンドの作品を念頭におきつつも、サリー市にある800以上ものバス停をすべて撮り収めることによって、コンセプトだけには収まらない、町のアーカイブとしても機能している。「Farm Tableaux」シリーズ(2013-14)では、絵画の世界ではミレーの絵にあるように繰り返し主題として描かれるが、アート写真においてはほとんど顧みられることのない「農業」をあえてテーマとし、グーグルと協同し複数のカメラを用いて精細に撮影した画像を、ストリートビューのなかに実際にマッピングして公開した。社会の基部にありながら表立っては見えてこない現代の「農業」の写真によるドキュメントであるとともに、観者がマウスを使いながら、写真のなかにインタラクティブに関与できるといった側面ももつ。ソーシャルネットワーク時代における、社会との関わりをもつ新たなアートの可能性を探った作品だ。

サイモン・フレーザー大学でジェフ・ウォールに学んだスティーヴン・ワデル(Stephen Waddellは、ウォールと同じく、絵画の伝統のなかに自らの活動を位置づける。ワデルは環境のなかで人をいかに描写するかという問題を考えるなか、もともと絵画のためのスケッチとして利用していた写真を、2000年代頃から主な手段として用いはじめた。写真集『Hunt and Gather』(Steidl, 2011)にまとめられた写真はスナップショットの手法で写されたものだが、場面の選択や中盤カメラでの撮影もあわさって、隅々まで意識が行きわたったステージドフォトのようにも、瞬間をとらえようとした印象派のデッサンのようにも見える。彼の関心はかつての画家がジャンルペインティングで描写したように、現代に生きる人々の様々な姿を、写真を用いた「タブロー」として写し留めることだ。それをあくまでステージドフォトではなく、日常の偶然の光や構図のなかにとらえようとする。「Dark Matter Atlas」(2014-16)では、こうした現代の風俗を描くカラー写真の試みと対照的に、世界各地にある地下洞窟をモノクロで撮影している。カラーとは違うモノクロの可能性を考えたときに行き当たった対象が、洞窟の闇の世界だったという。洞窟は人類にとっての絵画の始まりの場所でもある。石灰岩が形作る様々な造形が闇から立現れる姿をとらえた大型のプリントを前に、人間の想像力の源泉に触れるような気がする。

ワデルより年は若いが、同じくバンクーバー・コンセプチュアルフォトの次々世代と目されるカリン・ブーバシュ(Karin Bubaŝの「Studies in Landscape and Wardrobe」も、写真を用いたタブローに分類されるだろう。このシリーズは、アルフレッド・ヒッチコックや、ミケランジェロ・アントニオーニといった監督のシネマにおいて、風景のなかの女性とそのファッションが重要なモチーフとなっていることに想を得ている。人気のない自然のなかに、昔風の美しいコスチュームを着け、決してこちらに顔を向けることなく佇む女性のいる風景は、神秘的でエレガントな光景として印象的である一方で、場違いさも感じられる。女性はただ「見られるもの」としてそこにあるが、顔が見えないことでファッション写真とは違う不穏さが漂っている。画面のなかに何かが起こりそうで起こらないサスペンスの感覚をとらえるとともに、絵画や写真の歴史のなかでも繰り返しテーマとされてきた女性と風景の関係についても考えさせられる作品だ。

同じく次々世代で、UBCでウォールに学んだエヴァン・リー(Evan Leeは、写真を用いてタブローを作ることではなく、写真とタブローの違いは何か、何が写真を写真だと認識させるのかということを原理的なところから問いかける作品を制作している。ダラーストアや百均で売っている品物を用いて、伝統的なオランダ静物画のような構図とライティングで見せた作品「Dollar Store Still Life」(2006)や「Hyakkin Style」(2017)では、フェイクと本物の違い、タブローと写真の差異、日常に簡単に手に入る安価な品が崇高に見えてくるポイントはどこにあるのかを考えさせる。また、スキャナーによって朝鮮人参を撮影した作品「Ginseng Root Study」(2005)やフェイク・ダイアモンドとしても使われるジルコニアをデジタルスキャンによって撮影した作品「Fugazi」では、人工と自然、価値あるものとそうでないものの違いや、カメラもレンズも用いないスキャニングの技法で生み出された複写は「写真」と呼べるのかどうかという問いを提起する。また、ジクレー・プリンターを用い、写真用紙の裏に写真のイメージをインクを吹き付け、紙に吸着されずに浮いたインクを絵の具のように操ることで、絵と写真の中間領域のようなイメージを作成した「Forest Fire」も、写真と絵の境界はどこにあるかを考えさせる。他にも、ボート移民のニュース写真を3Dプリンターを使って立体に再現した作品など、写真の領域をその原理に立ち返りながら拡張するような実験的な試みを数多く行いつつ、中国系移民としての自分のルーツの問題などを同時に探るような作品を制作している。

他にも、写真の原理に目を向けた意欲的な試みは多い。
ジェイムズ・ニザム(James Nizamは、光に焦点を当てた作品を制作している。ピンホールのようにしつらえた室内で、窓から入り込む光を鏡に反射させて光の多角形を作った「Thought Form」や、古い家を用いて、実際に屋根や壁などをカットし、そこから差し込む光で幾何学的な形を生み出した「Shard of Light」など、光の彫刻ともいえる作品だ。

カレン・ザラメア(Karen Zalameaは、ライティングや物体の反射などを駆使して、人工的に見える光景をアナログの手法で撮影した作品を制作している。他にも氷で制作したレンズによって自然を撮影する試みや、写真をファブリックに印刷することで、平面の壁掛けにこだわらない、自在な形態をとりうる作品の可能性を探るなど、実験的な試みを行っている。


デジタル写真やインスタグラムといったアプリが社会に広く浸透し、定型サイズで額装されたモノクロ写真がすでに古典技法の部類にみえてくるなか、写真を用いるアーティストの多くが「写真」の原理を問いかけるような作品を生み出している。これはバンクーバーに限ったことではなく、世界各地ですでに10数年以上前から同時代的に進行している現象だ。

一方、バンクーバーの作家の多くに顕著に表れていると思ったのは、一つ一つのイメージには固有の枠組みとそれに応じた大きさがあるという考えだ。写真は単なるイメージではなく、物質的で内容をもったタブローとして、それに向き合う観者の身体性を考慮に入れた形で作品が作られる。そのときに、額装も作品の一部として重要な位置を占める。こうした傾向もバンクーバーの作家だけに限った話ではないのだが、タブロー性にこだわる作家の割合は、これまでリサーチしたどの都市よりも多いように思われた。ウォールの影響は大きいだろう。これをバンクーバーにおけるポストコンセプチュアルフォトの流れということはできるのかもしれない。

だが、このポストコンセプチュアルフォトの流れも、タブローだけに限定されるものでもないだろう。タブローという点から考えると、ワデル、ブーバシュはウォール、ウォレスの流れをひくように見えるかもしれないが、コンセプトという点から考えると、ボルダ、リー、ザラメアのようなタブローの枠組みをはみだすような作品形態が生まれてくる。(また、ここでは挙げなかったが、郊外性やコラージュ性といったことを考えるなら、アーデンの流れを汲むようにも見えるジェフ・ダウナーの作品なども注目される。)

バンクーバー・スクールのその後、そしてポストコンセプチュアルフォトに興味をもってはじめたリサーチだが、結局のところ、見えてくるのは統一的なスタイルではなく、個々の作家の関心に応じた多様性だ。美術だけでなく、都市計画や、多文化共生の面でも世界から高い関心をもたれている割には、程よい「小ささ」を確保したバンクーバーという街において、アーティストたちは世界とダイレクトにつながりながらも、小さなコミュニティのなかで、先行世代からの刺激的な教えを受け継ぎながら作品を生み出している。流行にはそれほど左右されず、作品の意味、見せ方といったコンセプトを、じっくりと作品に向き合いながら考える。ゆるやかでおおらかな時間の流れがそこにはあるように思われた。


バンクーバーの現代写真: フォトコンセプチュアリズム、ポストコンセプチュアルフォトとその後 Contemporary photography in Vancouver_e0249498_14084761.jpg
街の中心地にあるバンクーバー中央図書館




参考資料:
Ian Wallace ‘Photoconceptual Art in Vancouver’(1988), "Thirteen Essays on Photography", Canadian Museum of Contemporary Photography, 1990
"Ian Wallace: At the Intersection of Painting and Photography", Vancouver Art Gallery, Black Dog Publishing, 2012
Jeff Wall ‘Foreword’, “Christos Dikeakos: Nature Morte”, Kelowna Art Gallery, 2014
Roy Arden ‘Sun Pictures to Photoconceptualism’, “Vancouver Collects”, Vancouver Art Gallery, 2001
ジェフ・ウォール「取るに足らないものの印」-コンセプチュアル・アートにおける/としての写真の諸相『写真の理論』(甲斐義明編訳、月曜社)
“Jeff Wall: Selected Essays and Interviews”, Museum of Modern Art, 2007
"Photography in Canada 1960-2000", Canadian Photography Institute, 2017

バンクーバーの美術館、ギャラリー:

バンクーバーの写真を用いたアーティスト:
N.E. Thing Co.
Fred Herzog
Ian Wallace
Jeff Wall
Rodney Graham
Christos Dikeakos
Roy Arden
Ken Lum
Stan Douglas
Marian Penner Bancroft
Henri Robideau
Jim Breukelman
Greg Girard
Jin-me Yoon
Carol Sawyer
Sylvia Grace Borda
Stephen Waddell
Evan Lee
Karin Bubas
James Nizam
Karen Zalamea
Jeff Downer
Dana Claxton
Barrie Jones
Arni Runar Haraldsson
Jayce Salloum
David Campion and Sandra Shields
Vikky Alexander
Elizabeth Zvonar

カナダの主要な写真フェスティバル:
コンタクト(トロント)
キャプチャー(バンクーバー)

カナダのアート批評誌:

リサーチでは下記の方々から貴重なご意見、ご協力をいただきました。多謝!
スタジオ・ビジットさせていただいたアーティストの方々
Grant Arnold @Vancouver Art Gallery 
Helga Pakasaar @Polygon Gallery
Pantea Haghighi @Republic Gallery
Jordan Strom @Surrey Art Gallery
Stephen Bulger @Stephen Bulger Gallery
原万希子さん
飯窪里由子さん









by curatory | 2018-07-11 18:21 | 海外作家賞


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